心ゆくまで味わう 法然さまの『選択集』 第39回
浄土宗で〝第一の聖典〟と位置づけられる書物『選択本願念仏集』(『選択集』)を大正大学教授・林田康順先生が解説。
第7章 弥陀の光明余行の者を照らさず、ただ念仏の行者を摂取したもうの文③
阿弥陀仏の光明は 本願念仏を修める者を照らす
【現代語訳】
私釈:私の解釈を問答の形にして申し述べます。
〈質問します〉本章の篇目において、阿弥陀仏のお身体から放たれる光明がお念仏をとなえている者だけを照らして、その他の行を修めている者を照らさないと述べているのには、どういった理由があるのですか。
〈お答えします〉その点を解釈するにあたり、二つの理由があげられます。
第一に、阿弥陀仏と念仏者との間に親縁・近縁・増上縁という三縁が結ばれるという理由です。この点については、前に引用した善導大師の著書においてすでに明らかにされているので、ここでは省略します。
第二に、お念仏は阿弥陀仏が浄土往生の行として誓われた本願であるという理由です。すなわち、お念仏以外の行は本願の行ではないので、阿弥陀仏の光明がお念仏以外の諸行を修める者を照らして救い摂ることはありません。一方、お念仏は本願の行ですから、阿弥陀仏の光明はお念仏をとなえる者を照らして救い摂られるのです。
それ故、善導大師の『往生礼讃』の一節には、「阿弥陀仏のお身体は金でできた山のように、黄金色に輝いており誠に大きい。そのお身体に具わった大きく勝れた特徴である〔相〕や微細で勝れた特徴である〔好〕から放たれる光明は、あらゆる世界を明るく照らし出している。ただ、阿弥陀仏の救いの働きにあずかろうと念仏をとなえる者のみが、その光明に照らし出され、浄土へと救い摂られる。
こうしたことから、まさに阿弥陀仏が念仏を浄土往生の行として誓われた本願のお力こそ、もっとも強い働きと知るべきである」と述べられているのです。
また、前に引用した善導大師の『観無量寿経疏』の一節に「念仏以外のさまざまな行も善行と名付けられるものの、その功徳は念仏と比較すると、まったく比べものにならない」と述べられています。その意図するところは、(まずは阿弥陀仏の極楽浄土に往生して、そこでさとりを開くことを目指す)浄土門の教えにおいて、いかなる行を修めたならば浄土往生がかなえられるかという点について、すべての行の功徳を比較すると、お念仏の功徳が比べようのないほど優れているということです。
すなわち、お念仏は、かつて阿弥陀仏が法蔵と呼ばれる菩薩として修行していた時、(極楽浄土を建立するにあたって)ご覧になった210億もあるという無数の浄土の各々へ往生するために修めるべき行の中から、もっとも優れたものとしてただ一つ選び取られた善妙な行なのです。
一方、お念仏以外の行は、その各々の浄土に往生するための行の中、ことごとく選び捨てられた粗悪な行なのです。それ故、善導大師はその功徳を「まったく比べものにならない」と説かれているのです。
また、お念仏は阿弥陀仏が浄土往生の行として本願に誓われた行であり、他の行は阿弥陀仏が本願に誓われなかった行です。それ故、「両者はまったく比べものにならない」と説かれているのです。
【林田先生の解説】
前回までが第7章の「引文」でした。『観無量寿経』には、阿弥陀仏の光明があらゆる世界を照らし、念仏者を救い摂ることが説かれました。『観無量寿経疏』では、念仏者が救い摂られる理由として、阿弥陀仏と念仏者の間に結ばれる関係である「三縁」が、『観念法門』では、光明の働きが、常に念仏者を守り、決して見捨てないという護念増上縁の働きがそれぞれ示されました。今回はこれらの引文を受けた法然上人の解釈「私釈」です。
まず法然上人は、本章の「篇目」に掲げた「阿弥陀仏の光明が念仏者だけを照らして、その他の行を修めている者を照らさない」という理由について問答を設定されます。その回答として、
①阿弥陀仏と念仏者の間に三縁が結ばれるから
②阿弥陀仏が浄土往生の行として本願にお念仏を誓われたから
という2点を提示されます。これらは並列的に書かれていますが、上人には、阿弥陀仏が本願に誓われたお念仏だからこそ、阿弥陀仏との間に三縁が結ばれるという、重層的なお考えがあったと想定できます。
そして②について善導大師の『往生礼讃』を引用されます。ここで法然上人がもっともお伝えになりたかったのは、「本願のお力こそ、もっとも強く働く」という箇所に他なりません。さらに上人は、『観無量寿経疏』において善導大師が「念仏をほかの行と比較するならば、両者はまったく比べものにならない」と述べられた背景について、〔お念仏=法蔵菩薩が無数の行から選び取られた本願行〕であり、〔諸行=法蔵菩薩がことごとく選び捨てられた非本願行〕という対比に基づいていることを明らかにされるのです。
本章の引文で登場した『観無量寿経』の「摂益文」と呼称される一節について、法然上人が阿弥陀仏の光明を月の光に喩え、「月かげ」を詠まれたことは以前に述べましたが、両者の関係は左図のように整理できます。
私たちにとって、闇夜を照らす月の光は、この上なくありがたいものです。それと同様に、この迷いの世界は、煩悩まみれの私たちにとって暗闇に他なりません。だからこそ、いかなる時も私たちを明るく照らし、優しくお導きくださる阿弥陀仏の光明を仰ぎ信じて、お念仏をとなえる日々を送ることが何よりも大切となるのです。以上で第7章が終わります。

- 林田 康順(はやしだ こうじゅん)
- 大正大学仏教学部教授
- 慶岸寺(神奈川県)住職
- 法然浄土教、浄土宗学が専門。『浄土宗の常識』(共著、朱鷺書房)、『法然と極楽浄土』(青春新書)ほか、著書・論文など多数。