心ゆくまで味わう 法然さまの『選択集』 第40回
浄土宗で〝第一の聖典〟と位置づけられる書物『選択本願念仏集』(『選択集』)を大正大学教授・林田康順先生が解説。
第8章 念仏の行者必ず三心を具足すべきの文①
念仏者は、三心を必ず具えるべきこと
【現代語訳】
篇目:浄土往生を目指してお念仏をとなえる者は、必ず至誠心・深心・回向発願心の三心を具えるべきことを明らかにする章です。
引文:『観無量寿経』において釈尊は、次のように述べられます。
「誰であれ、もし極楽浄土に往生したいと願う者は、次の3種の心(三心)をおこしたならば速やかに往生がかなう。3種とは、第1にまことの心(至誠心)、第2に深く信じる心(深心)、第3にあらゆる善根の功徳を浄土に振り向けて往生を願う心(回向発願心)である。これら三心を具えた者は、必ず往生をとげることができる」と。
『観無量寿経』の注釈書である善導大師の『観無量寿経疏』には、次のように述べられています。
「『観無量寿経』において『第1に至誠心』ということの、〈至〉とは〈真〉を、〈誠〉とは〈実〉を意味する。すなわち釈尊は、すべての浄土往生を目指す者が、身と口と心の働きによって修める教えの理解と、その上での実践である行(念仏)を、必ず〈真実〉の想いでなすべきことを明らかにしようとされているのである。
外面では賢く善良な人として取り繕ったり、精進する姿を装ったりしてはいるものの、内心では愚かで悪く、怠惰であるなどといった、正反対の嘘偽り(虚仮)の思いを抱いてはいけない。
たしかに私たちは、貪りや怒り、邪な物の見方や偽りの心、悪賢さや人を欺こうとする思いが、次から次へと絶え間なくわき起こり、そうした悪しき本性がはびこってしまうことを容易には止められない。
心がひねくれているありさまはまるでヘビのようであり、他者を害する振る舞いはサソリに喩えられるように、身と口と心の働きにどれほど励もうとも、それは毒にも喩えられる煩悩にまみれた善行、または虚仮の行と名付けられるものであり、真実の働きと名付けることはできない。
もし、このようなありさまで、浄土往生を目指して行を修める者は、たとえ心身を責め苦しめるほど修行に打ち込み、昼夜を問わず一日中自らを責め立てるようにして実践しようとも、頭髪についた火を振り払うように必死に努めようとも、その行はすべて煩悩まみれの善行と名付けられよう。こうした煩悩まみれの善行を振り向けて、阿弥陀仏の極楽浄土に往生しようと求め願う者がいたとしても、決してかなうことはない。
なぜかといえば、さとりを開くことを目指していた阿弥陀仏が、法蔵という菩薩として計り知れないほど長い時間にわたって行を修められていた間、わずか一瞬に至るまで、身と口と心の働きを通じて修められたことは、皆すべて真実の心から実践したものだからである。
そして、修めた功徳のすべてをあらゆる命ある者に施された時も、自身のさとりを開くことに向けられた時も、皆ことごとく真実の心に基づいて行っていたからである。だからこそ私たちも真実の心である至誠心を必ず具えるべきなのである」
(※『観無量寿経疏』の引用続く)
【林田先生の解説】
前回までの第7章では、『観無量寿経』の「阿弥陀仏の光明はあらゆる世界を照らし、念仏者を救い摂る」という内容に基づき、阿弥陀仏の光明によって念仏者が救い摂られる理由が明らかにされました。
法然上人は、
①阿弥陀仏と念仏者の間に親縁・近縁・増上縁という三縁が結ばれる。
②阿弥陀仏が浄土往生の行としてお念仏を本願に誓われた。
という2点を提示され、とくに②を取り上げ、お念仏の功徳は他の行とは比べものにならないことを強調されます。
第8章の篇目で法然上人は、念仏者が〈至誠心〉〈深心〉〈回向発願心〉という〈三心〉を必ず具えるべきことを提示されます。ここで法然上人は、本章と続く第9章では「念仏の行者」が主体であることを明らかにされます。
この『選択集』は、全16章の中、3から7章と10から16章では仏さまの側に立ってお念仏の絶対性や普遍性が説き示されます。一方、残る章は私たちの側に立った内容で、1、2章では私たちが念仏者に向かう道筋を示し、第8章では念仏者の具えるべき心構えである〈安心〉、第9章では念仏者の日暮らしの規範である〈作業〉が説かれます。
この安心について法然上人は、「安心とは、往生を目指そうとする心づかいのありさまです」(『浄土宗略抄』)、あるいは、「浄土に往生しようと志す人は、安心・起行と申しまして、心と行いとが相い応じるようにすべきです」(『御消息』)と示されました。
ちなみに本章は、『選択集』全16章の中、もっとも長い章であり、そのほとんどを3種類の引文、とりわけ善導大師の『観無量寿経疏(観経疏)』が占めています。
さて、最初の引文である『観無量寿経』で釈尊は、浄土往生を願う者は、
①まことの心(至誠心)
②深く信じる心(深心)
③善根の功徳を浄土に振り向けて往生を願う心(回向発願心)
の三心を具えたならば必ずかなう、と示されました。これは『観無量寿経』において、浄土往生の様相を9通りに描く〈九品〉の中、もっとも高い上品上生の部分に説かれる記述です。
善導大師は九品それぞれには記述の有無に関わらず、該当する人や修行について共通する11種の項目があると解釈されました。上品上生のみに説かれる三心もこの11種の項目に含まれることから、九品のすべてに通じていると捉えられ、大師の考えを受けた法然上人も、念仏者は必ず三心を具えるべきと明示されるに至るのです。
第二の引文の『観経疏』で善導大師は、至誠心は真実の心であり、私たちは身と口と心の働きをこの真実の心でなすべきだと示され、そのあり方を論じられました。さらに大師は、極楽浄土を建立された阿弥陀仏が真実の心の中に、あらゆる自らのための修行(自利)と他者のための修行(利他)を実践されていることから、浄土往生を目指す念仏者も同じように至誠心を具えなければならないと訴えられます。
この至誠心について法然上人は、ご法語の中で「至誠心とは真実の心のことです。真実というのは、内心とは裏腹に外面ばかりを飾りたてようとする心のないことをいうのです」(『大胡の太郎実秀へつかはす御返事』)とやさしく説き示されています。
次回は、至誠心の種類についてです。