法灯を受け継いだ念仏行者 浄土宗二祖 聖光上人
修行時代
聖光上人は、九州北部香月庄(現在の北九州市八幡西区周辺)でお生まれになりました。難産であったため、母親は聖光上人を出産後、しばらくして亡くなられてしまいます。生まれて間もなく訪れた母との別れ、そんな苦しみ悲しみを抱えながら育ちました。
7歳で生家の菩提寺に入山、14歳で戒を授かって国に認められる僧侶になり、その後は地元の名刹(白岩寺・明星寺)で修行され、勉学に励みました。22歳で比叡山に登り、勉学に没頭するあまり源平の争乱を知らなかったとも言われる名僧・證真に師事しました。30歳で九州にもどり、多くの僧侶が学ばれていた油山という寺の、学問をつかさどる地位「学頭」という役職に就かれました。僅か30歳という若さで就任したことを考えてみても、聖光上人がいかに秀才であったのかが想像できます。
しかし、学頭に就かれたその時、大きな転機に見舞われました。ともに学んでいた舎弟の三明房が、目の前で苦しみ出し、生死の淵をさまよう様子を目の当たりにしたという出来事でした。その際、聖光上人は、自分の学んできたことがこのような場面では全く役に立たないと衝撃を受け、学びを大きく転換したといわれています。三明房は一命をとりとめたとも、亡くなられたとも言われていますが、聖光上人は世の無常を身をもって感じられました。こうした悩み苦しみのさなか、法然上人と出会うのです。
法然上人との出会い
世の無常、命のはかなさを痛感された聖光上人は、どんな人でも救われる教えとは何か、志半ばで命が終えた者でも救われる道はないのだろうかと、心の底から探し求めました。そんな苦しみの中、聖光上人は明星寺の五重塔を建設する職に就かれるのですが、この塔に納める本尊を迎えるために向かった京都で法然上人と出会います。これがまさに〝運命の出会い〟となりました。
聖光上人はさまざまな想いをかかえて、法然上人がおられた東山(現在の総本山知恩院)の庵を訪れました。聖光上人をむかえ入れた法然上人は次のように説かれました。「仏道修行はたくさんありますが、すべての人ができて、すべての人が救われるのが、口で『南無阿弥陀仏』ととなえるお念仏の教えなのです」と。幼い頃からさまざまな苦しみを抱え、大きな挫折を味わい、そして救われた聖光上人ですから、どれだけお念仏の教えをありがたいと思われたことでしょうか。
九州に念仏を広める
その後聖光上人は、本尊を明星寺にもたらしたあと、再び法然上人のもとに向かいじっくりとお念仏の教えを学ばれました。そんな中、法然上人は大変喜び、お念仏の教えを記された『選択本願念仏集』を聖光上人にお授けになられました。このことは、聖光上人がお念仏の教えを正しく受け継いでくださる方にふさわしいと確信されたことがうかがえる大変大きな出来事です。そして6年間、法然上人のもとで学ばれた後、再び九州に帰ることとなりました。なぜ再び九州に戻られたのかは定かではありませんが、お念仏の教えを正しく世に広めるということを自らの使命だと感じたからではないでしょうか。
九州での聖光上人は批判や非難を恐れず、お念仏の行をたくさん勤めました。当時、お念仏の行が行われている場所などなく、自ら新しい道を切り開いていったのです。時には妨害を受けそうになりながらも、教えの尊さを信じて活動を続けた結果、たくさんの同志が集うようになりました。
次の世代へ
多くの同志が集ったという記録は、聖光上人が記された『末代念仏授手印』という書物に残されています。法然上人の説かれた称名念仏の教えをないがしろにする者が現れたことに嘆き、法然上人の教えを確認し合うために熊本の往生院と宇土の西光院で48日間の念仏会を開催し、その様子を書き残されたのですが、そこには39人に及ぶ同志の名前が記されています。この『末代念仏授手印』が記された後も同志は増え続けたようです。
その代表格が後の浄土宗三祖となられる然阿良忠上人です。良忠上人は聖光上人の門をたたき、法然上人の教えを聖光上人から吸収され、またその顕彰に務められ、後の世に多くのものを残されることとなられました。
このような同志との学びの場として、久留米善導寺(現在の大本山善導寺)や八女の天福寺といった拠点を整備されました。これも業績の一つであり、これらの地は現在も遺跡として大切にされています。
こうして後の世につながる同志も得、法然上人の教えを現在まで伝えたのが聖光上人なのです。
【著者プロフィール】
浄土宗総合研究所研究員 郡嶋昭示(ぐんじま しょうじ)
昭和53年千葉県生まれ。浄土宗総合研究所研究員。大正大学非常勤講師。松戸市常行院住職。博士(仏教学)。
専門は聖光上人の研究。著書に『浄土教の世界』(大正大学出版会、共著)、など。ぐんじまんとして月刊『浄土』にマンガ「浄土宗のお祖師様」連載中。