【浄土宗の読む法話】み名を呼ぶ思い
私たちは、朝目覚めてから夜眠るまで、さまざまなものの名前を口にします。
そこには喜怒哀楽の感情がこめられています。例えば子どもが「お母さん」と言葉にする時、甘えたい気持ちや喜び、時には怖れや怒りが含まれていることでしょう。
では私たちが「南無阿弥陀仏」と阿弥陀様のお名前をお呼びする時、どのような思いで称えているでしょうか。多くの場合、先立った方々のご供養のために、という思いで称えておられることでしょう。もちろん阿弥陀様はそうした思いにも応えて下さいます。では浄土宗を開かれたお念仏の元祖・法然上人はどうお示しでしょうか。
「称名の時に心に思うべきようは、人の膝などをひきはたらかしてや、助け給えという定なるべし」(つねに仰せられける御詞)
「南無阿弥陀仏と称える時に心に思うべきことは、人の膝にすがりついて、お助け下さいというような気持であるべきです」また別のご法語には「阿弥陀ほとけ、たすけたまえ」という思いで称えなさいとお示しになっています。
「助け給え」という気持ちで称える、ということには二つの意味があります。一つは、「この私は救われがたいものである」という思いです。浄土宗は「21世紀劈頭宣言」の冒頭に「愚者の自覚を」と掲げています。冒頭に掲げる、ということはそれが一番大切な事、入り口であるからに他なりません。様々な煩悩にまとわれ、欲望のままに生きる私たちは誰もが「凡夫(ぼんぶ)」と呼ばれる救われがたいものです。そう自覚するからこそ「助け給え」と阿弥陀様の名をお呼びするのです。もう一つは「この救われがたい私」を、阿弥陀様は必ずお救い下さるという思いです。この世で何かピンチになった時、頼りすがるべきは「頼りがいのある人」でしょう。ましてこの身、この命のゆくえの大ピンチなのに、頼りないものや、財産や名声などの失われるものにすがるわけにはいきません。極めつけに頼りがいのある阿弥陀様におすがりする、その思いが声になる、それが「南無阿弥陀仏」のお念仏なのです。
なにより、今この世に生きている私のために仏となってくださった阿弥陀様です。心の底から頼りきり、お任せする思いで「南無阿弥陀仏」とお称え下さい。
合掌
青森教区 弘南組 遍照寺 花田俊岳