浄土宗新聞

【浄土宗の読む法話】授戒のすすめ

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浄土宗にとって大切な両輪といわれる、二大法要があります。一つは五重相伝。もう一つは、授戒会と言います。

花の散りざまも色々。古来先人はその表現を言い変えておられます「梅こぼれ、桜は散りて、椿落ち、牡丹くずれて、人はゆくなり」
お互い何時かはこの世を離れる時が来るわけですが、この世を離れて、いったい何処に往くのか!死んで終わりではなく意気揚々と参る極楽世界があるのだと確かな念仏信仰を頂くのが五重相伝であるのに対し、では、その時を迎えるまで、人はどう生きるべきか!どう人の道を歩むべきか、その道標を頂戴するのが授戒というものなのです。
道が無くとも、猫は屋根を横切ります。犬は縁の下を斜めにでもくぐり抜けます。しかし、人間には人間の進むべき道が有ります。それを無視していたら、非道、無法になりかねません。人が人として、歩むべき道を知らしめして下さるのが授戒です。

知って悪い事をするのと、知らずに悪い事をするのは、さてどちらが悪い?と言われたら、普通は「知って悪い事をする方が悪いに決まってる。」と思いますよね。しかし、どちらが恐いか?となると話が変わります。
例えば、ストーブの天板は熱いと知っている大人は滅多とさわりません。しかし、ようやく歩き出した幼子が、うかうか、近づき紅葉の様な手のひらをもしストーブの天板に触れたら、大火傷につながります。信号の赤は止まれ、青は進めと知っているからこそ、止むを得ず黄色で交差点に進入したとしても、左右を確認して通過できます。もし知らない人が赤で交差点に進入したら当然大事故をひきおこします。
戒めを守れるか、守れないかは別問題で、知ってるか、知らないかが、先決なのです。それを知らしめて下さるのが授戒なのです。人間は何処までもお粗末です。煩悩を抱えている事も知らずに、好き勝手に生きています。
最近、境内裏庭の土手の草刈りの為に草刈り機を購入しました。まんべんなく雑草が生えていると、そう気にもなりませんが、刈り出すと、生えてる処が気になってしかたありません。当然刈っても刈っても次から次へと雑草は生えて来ます。しかし、刈って見るからこそ其れが見えてくるのです。
バス停でのある老夫婦の会話です。「いくら待っても、バスが来ない!何のための時刻表じゃ!」「おじいさん、バスが遅れていると言うことが分かるのは時刻表があるからやないですか!」

授戒会の法要儀式を通して、自分の奥深い心の引き出しにその戒がしまいこまれ、自分で意識してない様でも知らず知らずのうちに、人としての道を誤らないよう、大火傷しない様導いていただけるのが戒と言うものなのです。
時刻表と言う戒法を持ってこそ、其れをまともに守れないお粗末な自分がまた見えてまいります。だからこそ、そんな者でも救われる道であるお念仏が大事になってくるのです。

合掌

奈良教区 第六組 蓮花寺 廣井一法