浄土宗新聞

心ゆくまで味わう 法然さまの『選択集』 第15回

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浄土宗で〝第一の聖典〟と位置づけられる書物『選択本願念仏集』(『選択集』)。「極楽往生を遂げるためには、何より〝南無阿弥陀仏〟とお念仏をとなえること」とする浄土宗の教えを、宗祖法然上人(1133ー1212)が微に入り細に入り説き示された「念仏指南の書」ともいえるものです。大正大学教授・林田康順先生に解説していただきます。

第2章
善導和尚正雑二行を立てて、しかも雑行を捨てて正行に帰するの文

||味わい方

このコーナーでは、『選択集』の現代語訳と林田先生による解説を掲載しています。
現代語訳部分は、篇目(章題)、引文(内容の根拠となる文章の提示)、私釈(引文に対する法然上人の解釈)で構成されています。

前回

 前号で法然上人は、善導大師の『往生礼讃』を引用して、もっぱらお念仏を修める〈専修〉と、それ以外の雑多な行を修める〈雑修〉の利益と不利益について、〈専修〉による4の得と、〈雑修〉による13の失(四得十三失)があることを紹介されました。
 今号で善導大師は、そのように示される原因となったご自身の体験について吐露されます。

【引文】

 なにゆえこのような、行の利益と不利益について述べてきたかといえば、私は近年各地を巡り、僧侶や信者の次のような姿を見聞してきたからである。彼らは教えの理解や行の修め方がそれぞれ異なっていて、もっぱらお念仏をとなえている〈専修〉の者と、雑多な行をとりとめもなく修めている〈雑修〉の者が混在していた。心を一つにしてお念仏をとなえている者は、10人いれば10人すべてが浄土往生を遂げた。それに対して、雑多な行を修め、阿弥陀仏に純粋な心を向けられない者は、千人いても誰一人として往生を遂げられなかった。こうした両者の利益と不利益については、すでに明らかにした通りである。
 往生を目指すすべての人たちには、こうした点をよく考えていただきたい。今生こそは必ずや極楽浄土に往生を遂げると願いを起こした者は、歩いていても立ち止まっていても、座っていても横になっていても、いついかなるときも、常に心を励まし、自身を奮い立たせて、昼も夜も怠ることなく、命終えるまでお念仏を続けなさい。生涯にわたりお念仏に励み続けるのは、いささか苦行に似ているけれども、命終えた暁には、次の瞬間に極楽浄土に往生し、未来永劫にわたって変わることのない真実の喜びを享受することができる。そして、さとりをひらいて仏となるまで、二度とこの生き死にを繰り返す迷いの世界に戻ることはない。それはまことに快いものである。そのことをしっかり理解すべきである。

【解説】

 ここで善導大師は、お念仏をとなえることによって、生き死にを繰り返す迷いの世界から永遠に離れ出られることを「まことに快いものである」と表現され、その悦びを強く訴えられます。
 これは、法然上人の「幸いにも私たちは、人としてこの世に生を受け、阿弥陀仏のお念仏の教えに巡り遇い、今までおこし得なかった浄土往生を願う志をおこし、離れ難いこの迷いの世界を離れ出て、生まれ難い極楽浄土へ往生を遂げることができるのです。これ以上の悦びがありましょうか」(『一紙小消息』)という悦びに通じるものです。
 このような、善導大師と法然上人の訴えに心を運ばないわけにはいかないでしょう。

【私釈】

 私の解釈を申します。ここで引用した『往生礼讃』の一文を見ると、雑多な行をとりとめもなく修める〈雑修〉を捨てて、もっぱらお念仏をとなえる〈専修〉に向かうべきことが分かります。なにゆえ100人いれば100人すべてが往生する〈専修〉〈正行〉を捨てて、千人いても誰ひとりとして往生を遂げられない〈雑修〉〈雑行〉に執着する必要があるのでしょうか。極楽浄土を目指す行者は、よくよくこのことに思いを運ばなければならないのです。

【解説】

 1・2章を通じて法然上人は、次の3段階を経てお念仏一行に至る道筋を明らかにされました。
①すべての仏教の教えから、この身このままでさとることを目指す〈聖道門〉の教えを後回しにし、まずは阿弥陀仏の極楽浄土に往生して、そこでさとりを目指す〈浄土門〉の教えに入る。
②浄土門では、阿弥陀仏に疎遠な行〈雑行〉を捨て、阿弥陀仏に親近する〈正行〉に帰す。
③正行では「浄土三部経」を読誦するなどの4種の行〈助業〉を傍らにして、必ず浄土往生がかなうお念仏〈正定業〉をもっぱら修める。
 こうして法然上人は、私たちを専修念仏へと導いてくださいました。
 次回からは私たちがお念仏をとなえる理由である、阿弥陀仏の本願を説く3章に入ります。

Q&A 教えて林田先生

本文にある〈専修・雑修〉は、以前に出てきた〈正行・雑行〉と同じ意味に見えますが、違うものなのでしょうか?

〈正行・雑行〉はお念仏を強調するため、「称名正行を中心に据えた行」と「それ以外の行」という、行そのものの分類といえます。
 一方で、〈専修・雑修〉は、「お念仏をもっぱら修めること」と「雑多な行を修めること」という、行に向き合う私たちの態度の分類といえます。
 法然上人は、お念仏を中心に据えた〈正行〉とお念仏を中心に修める〈専修〉とは同じであり、雑多な行である〈雑行〉と雑多な行を修める〈雑修〉とは同じものであると理解されました。

  • 林田 康順(はやしだ こうじゅん)
  • 大正大学仏教学部教授
  • 慶岸寺(神奈川県)住職
  • 法然浄土教、浄土宗学が専門。『浄土宗の常識』(共著、朱鷺書房)、『法然と極楽浄土』(青春新書)ほか、著書・論文など多数。