2026年11月:普通ってなぁに?
近年、多様性という言葉は、様々な場で話されています。性別や国籍、価値観、「当たり前は人それぞれ違う」という考え方は、以前より確実に広まってきました。私自身もその考えに共感し、理解できていると思っていました。しかしある時、自分は勘違いをしていたのではないかと思うことがありました。
以前、スーパーで買い物をしていたとき、車いすの方が通路にいらっしゃいました。車いすは通路の幅を大きく取っていましたが、私は特に気に留めることなく、体を斜めにして横を通り抜けました。すると、その方は申し訳なさそうにおじぎをされました。突然のことだったというのもありますが、私はそれに対し、何事もなかったかのように通り過ぎてしまいました。車いすが場所を取るのは当然のことであり、その方が頭を下げる必要などないと思っていたからです。
しかし、今振り返ると、「それで良かったのだろうか」と思います。おじぎをして気持ちを伝えてくれた相手に対し、私は何も返しませんでした。それは配慮のつもりでいて、ただ無関心なだけなのではないかと思うのです。
違いを認めることと、違いに無関心でいることは別物です。みんな違って当たり前という考えが、深入りしない、触れないでおくという行動につながってしまいました。それは相手を尊重し配慮しているつもりでいて、実際には距離を置き、関わろうとしていなかっただけなのかもしれません。
私は「当たり前は人それぞれ違う」という言葉を勘違いしていたのでしょう。迷惑をかけられるのが当たり前だから気にしないという無関心は、裏を返せば、迷惑をかけるのが当たり前だから気にしなくていい、という開き直りにもつながります。そして、その自分の中の普通を他者に押し付けていたのです。
誰にでも生きていく中で、人に頼る時もあれば、人を支える時もあります。お互いさまお世話さまという意識を持ち、それを前提として「当たり前は人それぞれ違う」という考えを持てれば、自然と相手を思い、応えようとする配慮につながる。誰もが互いを思いやり、支え合うような、違いを認め合える社会につながっていくのではないでしょうか。
(群馬県太田市 長念寺 稲村暁央)