心ゆくまで味わう 法然さまの『選択集』 第45回
浄土宗で〝第一の聖典〟と位置づけられる書物『選択本願念仏集』(『選択集』)を大正大学教授・林田康順先生が解説。
第8章 念仏の行者必ず三心を具足すべきの文⑥
異なった理解の人々への対応―四重の破人②―
引文
(※善導大師『観無量寿経疏』引用の続き)
また、浄土往生を目指してお念仏をとなえる者は、その教えを非難したり、妨害する者に対しては、次のように説き伝えなさい。
「あなたは、次のことをよくお聞きなさい。今、私は、あなたのために私自身の確固たる念仏信仰の様相をさらに説こう。
たとえ、ある程度修行が進んだ菩薩(「十地」という位以前の菩薩)や、小乗の教えにおいてさとりをひらいた聖者(縁覚や声聞)が、一人もしくは多数、あるいは、あらゆる世界に遍満するほど無数にいて、彼らがみな、経典やその注釈書(論疏)の内容を証拠として、口々に『煩悩の多い凡夫は、罪の障りが重いので、念仏をとなえるだけで浄土への往生を遂げられるはずがない』と言い募っていたとしても、私は一瞬たりとも念仏往生の教えに疑いの心を抱くことはない。
あなたたちによる非難は、かえって私自身の清浄な念仏往生の信心を増進し、確固たるものにするばかりである。なぜならば、仏のお言葉は揺るぎなく成し遂げられた完全円満な教えであり、どのような非難や妨害があったとしても、破られたり壊されたりすることは決してないからである」と。
また浄土往生を目指してお念仏をとなえる者は、私の言葉をしっかりと聴き、その教えを非難する者に対して次のように答えなさい。
「たとえ、高度に修行が進んだ十地の菩薩が、一人もしくは多数、あるいは、あらゆる世界に遍満するほど無数にいて、彼らがみな、異口同音に、『釈尊は、阿弥陀仏や極楽浄土を指し示して褒め讃え、三界や六道という、私たちが生まれ変わり死に変わりを繰り返す迷いの世界を強く厭い嫌って、命あるすべての者に向けて、心を一つにしてただひたすらお念仏をとなえることや、さまざまな善根を修めることを勧め励まし、それにより、この生涯を終えた暁には、かならず極楽浄土への往生を遂げることができる、と説いている。しかし、このような釈尊の示されたことは、まったくもってうそ偽りに他ならない。だから、それをよりどころとして信じてはならない』などと言い募っていたとしても、私はわずかであっても念仏往生の教えに疑いの心を抱くことはない。あなたたちによる非難は、かえって私自身の揺るぎなくこの上ない念仏往生の信心を増進し、確固たるものにするばかりである。
それは、仏のお言葉は、真実の法(教え)を間違いなく正しく体得したうえで示されたものだからである。また仏は、真実の法をあるがままに知り尽くし、理解し、見究めて、体得されているのであって、たとえ高度に修行が進んだ十地の菩薩であったとしても、まださとりを開いていないのだから、真実の法に対して最終的な正誤の判断をくだすことはできず、そのような疑いの心を抱きながら発する言葉は、仏のお言葉とは根本的に異なるからである。
だからこそ、すべての菩薩が念仏往生の教えと異なった見方や解釈を言い募っていたとしても、念仏往生の信心が破られたり壊されることは決してない。もとより、本当の菩薩であるならば、その言葉はわずかであっても、仏の教えに違うことなどあろうはずがないからである」と。
(※『観無量寿経疏』の引用続く)
【林田先生の解説】
今回も、善導大師の『観無量寿経疏』に示される深心(深く信じる心)の解釈が続きます。
前回から、「四重の破人」という、お念仏の教えを非難し、その信仰を後戻りさせようとして私たちに言い寄ってくる4種の人々が例示され、彼らに対する反論が善導大師によって丁寧に説き示されています。前号は、初重の破人として、お念仏の教えとは異なった解釈を施す人や別の行を修める人が登場しました。今回は、二重・三重の破人が登場します。
まず二重の破人では、ある程度の修行が進んだ菩薩と小乗の教えにおいてさとりをひらいた聖者である縁覚・声聞が登場します。
善導大師は、仏説は完全円満な教えであるから、たとえ彼らが疑いに染まった心からお念仏の教えを非難しても、念仏往生についてわずかな疑いも抱くことのない清浄な信心を増すばかりである。だから、「その教えは彼らの非難によって破壊されることは決してない」と応答せよ、とお示しです。
次に三重の破人では、高度に修行が進んだ十地の菩薩が登場します。大師は、たとえ彼らが、迷いの世界である三界や六道に生きる者たちはどれほどお念仏に励んでも浄土往生などかなわないと非難したとしても、この上ない念仏往生の信心は増すばかりである、と述べるよう示されます。
その理由として、仏説は真実の法(教え)を間違いなく正しく体得した者の言葉であるのに対し、どれほど修行が進んでも、さとりを開いていない菩薩は、真実の法に対して最終的な正誤の判断を下すことができないので、仏と菩薩の言葉には根本的な質的隔たりがあり、彼らの非難によって念仏往生の信心が破壊されることは決してない、と応答せよと説かれるのです。
この三界とは、①欲界(さまざまな欲望に囚われた存在のいる領域)、②色界(いくつかの欲望からは離れているが、物質や肉体の束縛から脱却できない存在のいる領域)、③無色界(物質的制約を離れた精神的働きのみが存在する領域)という三つの世界を指しており、私たちの心の働きを基準にして分類したものと言えます。
また六道とは、生前の身と口と心の働きの結果に基づいて生き死にを繰り返す、①地獄道、②餓鬼道、③畜生道、④修羅道、⑤人道、⑥天道という六つの世界を指しており、私たちが存在する物理的な場を基準にして分類したものと言えます。
三界と六道は、「欲界=天道以外の五道+六欲天(天道の一部)」、「色界=四禅天(天道の一部)」、「無色界=四無色天(天道の一部)」という関係となっています。いずれせよ、これらの世界に住む者たちは、仏の教えを正しく理解して実践できないことから、生き死にを繰り返す迷いの境地から容易に脱することができないとされます。
善導大師は、この二重・三重、そして四重の破人の冒頭に「たとえ」という表現を用いています。これは、初重の破人と異なり、二重以降は、あくまでも「仮定」の話であって、仏の教えを正しく学んでいる菩薩・縁覚・声聞であれば、仏のお言葉を非難することなど現実問題として決して起こるはずもないからです。こうした内容を通じて大師は、私たちに揺るぎない信仰の確立を促しているのです。

- 林田 康順(はやしだ こうじゅん)
- 大正大学仏教学部教授
- 慶岸寺(神奈川県)住職
- 法然浄土教、浄土宗学が専門。『浄土宗の常識』(共著、朱鷺書房)、『法然と極楽浄土』(青春新書)ほか、著書・論文など多数。