浄土宗新聞

心ゆくまで味わう 法然さまの『選択集』 第18回

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浄土宗で〝第一の聖典〟と位置づけられる書物『選択本願念仏集』(『選択集』)。「極楽往生を遂げるためには、何より〝南無阿弥陀仏〟とお念仏をとなえること」とする浄土宗の教えを、宗祖法然上人(1133ー1212)が微に入り細に入り説き示された「念仏指南の書」ともいえるものです。大正大学教授・林田康順先生に解説していただきます。

第3章
弥陀如来余行を以て往生の本願となしたまわず。唯念仏を以て往生の本願となしたまえるの文

||味わい方

このコーナーでは、『選択集』の現代語訳と林田先生による解説を掲載しています。
現代語訳部分は、篇目(章題)、引文(内容の根拠となる文章の提示)、私釈(引文に対する法然上人の解釈)で構成されています。

前回

前号で法然上人は、阿弥陀仏がまだ、法蔵と呼ばれる菩薩(修行者)であったときの話を『無量寿経』から丁寧に引用されました。
法蔵世自在王という仏のもとで、すべての仏が菩薩時代に立てる誓い(本願)を立てようとします。極楽浄土をはじめとするすべての仏の国(浄土)はこの誓願が成就した結果成立したとされ、世自在王仏は、法蔵がすぐれた誓願を立てられるようにと210億の浄土を示しました。
法然上人は、お経から「すぐれて清浄な行だけを〈摂取〉された」とある箇所を2場面にわたって引用し、〈摂取〉という語を強調されます。それは上人にとって〈摂取〉が重要な意味を持つからにほかなりません。今回は『無量寿経』とほぼ同じ内容を、別の方が翻訳したお経の引用から始まります。

【私釈】

大阿弥陀経』には次のように記されています。
世自在王仏は(すべての命あるもの〔衆生〕を救うため誓願を立てようとする)法蔵菩薩のために、210億もの仏が各々構えている仏国土(浄土)について、そこに住む者たちの善い点と悪い点、それらの浄土の好い点とそうでない点について〈選択〉して説き示された。それは法蔵菩薩が心に望んだものに応じて〈選択〉された結果である。
世自在王仏が説き示し終わると、法蔵菩薩は心を集中して、すべての世界を自由に見通す力を獲得した。そして210億もの仏の浄土について、そこに住む者たちの善い点と悪い点、それらの浄土の好い点とそうでない点をことごとく見極めて、願い求めていたものを〈選択〉された。その結果、24の誓願を説くこのお経にまとめられたのである」と。(『平等覚経』にも同様の記述があります)

【解説】

お釈迦さまの言葉をまとめたお経はインドで作られました。それは様々な国の言語に翻訳されましたが、時代や人により解釈などが異なり、一つの経典でも複数の翻訳が作られることがありました。じつは『無量寿経』を漢文に訳したものにも12種類あり、『無量寿経』はじめ先ほどの『大阿弥陀経』『平等覚経』などがそれにあたります。12種のうち五つが現存、七つが散逸しているため“”と総称されています。
古来日本では『無量寿経』が広まっていましたが、法然上人は中国のある典籍を見たことをきっかけにあらためて異なる翻訳に注目、『大阿弥陀経』に説かれる「選択」をしたこの『選択本願念仏集』を撰述し、お念仏の教えを体系化されることになるのです。

【私釈】

この『大阿弥陀経』に出てくる〈選択〉とは「取捨」という意味です。すなわち210億の浄土について、そこに住む者たちの善い点を取り入れ、悪い点を捨て、浄土の好い点を取り入れ、そうでない点を捨てたということです。
無量寿経』にも、「選択」を意味する言葉があります。「210億もの荘厳された浄土それぞれを建立するために仏たちが修められた、すぐれて清らかな行だけを〈摂取〉された」という部分の〈摂取〉の語です。
〈選択〉と〈摂取〉、言葉こそ異なっていますが、意味するところはまったく同じです。すなわち、清らかでない行を選び捨てて、清らかな行だけを選び取られたのです。先述した浄土に住む者たちの悪い点と善い点、これらの浄土の優れていない点と霊妙(れいみょう)な点についても同じであり、行と同じように悪い点や優れていない点を選び捨て、善い点や霊妙な点を選び取られたと理解すべきです。

【解説】

法然上人は、『無量寿経』に説かれる〈摂取〉も、『大阿弥陀経』に説かれる〈選択〉も、ともに「選び取り・選び捨て」の意味を持つ言葉であることを見出されました。そして、法蔵が多くの浄土から「善・妙・好・清浄」なるものを選び取り、「悪・粗・醜・不清浄」なるものを選び捨てて48の願を立てたと主張されたのです。法然上人がはじめて考え出されたこの思想は「選択思想」と呼ばれています。

【私釈】

そこで、阿弥陀仏が立てられた48の誓願のそれぞれについて、〈選択〉と〈摂取〉がどのように表れているかというと、次のようになります。まず、〔極楽浄土には地獄餓鬼畜生という三つの悪い境界(きょうがい)がないようにしたい〕という第一願(無三悪趣の願)についてです。法蔵菩薩がご覧になった浄土には、三つの悪しき境界がある粗雑で悪い浄土と悪しき境界がない浄土がありました。そのとき、前者を選び捨てて、霊妙で善い後者を選び取られたので〈選択〉というのです。  次に、〔極楽浄土に住む者たちが命終えた後、三つの悪い境界に再び生まれ変わることがないようにしたい〕という第二願(不更悪趣の願)についてです。法蔵菩薩がご覧になった浄土のなかで、三つの悪しき境界はないけれども、その浄土に住む者が命終えて別の世界に生まれ変わったとき、そうした境界に再び生まれ変わってしまう粗雑で悪い浄土と、三つの悪しき境界に決して生まれ変わらない浄土がありました。そのとき、前者の浄土を選び捨てて、後者の霊妙で善い浄土を選び取られたので〈選択〉というのです。

【解説】

ここで法然上人は、阿弥陀仏の四十八願のなか、第一願と第二願を解釈されます。
かつて上人は、阿弥陀仏は私たちの苦しみを除くため(抜苦)、この二つの願を立てられたと説明されていました。本書でその姿勢を大きく転換して「善・妙・好・清浄」なものを選び取った結果、願を立てたとされたのは、第十八願において阿弥陀仏が他の行を捨て、もっとも優れたお念仏を選定した根拠とするためでした。
次回は、第三願・第四願の解釈に続き、いよいよ第十八・念仏往生願をめぐる上人のお考えについて進んでいきます。

  • 林田 康順(はやしだ こうじゅん)
  • 大正大学仏教学部教授
  • 慶岸寺(神奈川県)住職
  • 法然浄土教、浄土宗学が専門。『浄土宗の常識』(共著、朱鷺書房)、『法然と極楽浄土』(青春新書)ほか、著書・論文など多数。