心ゆくまで味わう 法然さまの『選択集』 第31回
浄土宗で〝第一の聖典〟と位置づけられる書物『選択本願念仏集』(『選択集』)。浄土宗の教えを、宗祖法然上人(1133 – 1212)が説き示された「念仏指南の書」です。大正大学教授・林田康順先生に解説していただきます。
第4章
三輩念仏往生の文 ⑦
本章において法然上人は、阿弥陀仏について説かれた『無量寿経』のなか、浄土往生を願う者の資質や能力、往生の様相を三つに分類した上輩・中輩・下輩の三輩についての部分を引用されました。じつは、同じく阿弥陀仏について書かれた『観無量寿経』にも、三輩と同じように浄土往生を願う者を上品上生から下品下生までの9段階にわたって描く九品が説かれます。古来、これら三輩と九品は同義であり、九つに詳しく分けたのか、三つにまとめるか(開合の異なり)と捉えられてきました(下段図参照)。
ところが実際は、三輩ではその全てにお念仏が説かれているのに対して、九品では、上品と中品にはお念仏が説かれず、下品に至って初めてお念仏が説かれています。
そこで法然上人は、九品のすべてにお念仏が説かれていない理由について〈問い〉と〈答え〉という問答の形式を設定し、その理由について述べられました。今号は、その〈答え〉について、上人は二つの回答を示されます。
【私釈】
〈お答えします〉この点については二つの理由があります。
第1に、質問のはじめの部分に言われているように、『無量寿経』に説かれる三輩と『観無量寿経』に説かれる九品とは、もともと〈開合の異なり〉と捉えられるものであって、その中には明示されずとも、上品上生から下品下生まで、いずれにもお念仏が説かれていることを知るべきです。どうしてそれがわかるかといえば、三輩の全てにお念仏が説かれているのですから、明文化されていなくとも実際には、三輩を細分化した九品のいずれにも、お念仏は説かれているということになります。
それ故、『往生要集』には、この点を問答のかたちで、
「〈問〉念仏の行は、九品の中において、上品・中品・下品のいずれに該当するのか。
〈答〉もし経典の説き示す通りに行じるならば、道理としては上品上生に該当するが、人々のありさまはさまざまであって、その修める念仏の功徳の勝劣に応じて、『観無量寿経』では九品に分類されている。
しかし九品に説かれているさまざまな行の配当は、ほんの一部を示しているに過ぎないのであって、道理に照らし合わせてみれば、実際には、はかり知ることができないほど多くの配当になるのである」と述べられているのです。こうしたことから、お念仏もまた九品のすべてに共通していることが知られます。
【解説】
まず一つ目として上人は、『往生要集』の一節を間接的な証拠とし、三輩と九品が〈開合の異なり〉という関係にある以上、三輩のすべてにお念仏が説かれているのだから、文章として明示されなくとも、九品のすべてにわたってお念仏が説かれていることを論理的に明らかにされたのです。
【私釈】
第2に、『観無量寿経』を説示された釈尊の意図は、心を静めて修める定善の行や、散り乱れる心のままでも修めることができる散善の行をはじめに広く説くことで、あまねくすべての人々に浄土の教えを伝えた上で、最終的には、それら定善や散善の行を修めることを人々にやめさせて、お念仏の一行に帰依させる点にあるということです。つまり『観無量寿経』末尾において、釈尊が阿難尊者に対して説き示された「あなたは、しっかりとこの言葉、すなわち、阿弥陀仏の名号を保持して、後の世に伝え遺すようにしなさい」などと説かれる一文が、釈尊の最終的な意図に他なりません。それらの理由については、後の第12章段において細かく述べることとします。こうしたことから、九品における浄土往生の行が、共通してただお念仏であるということが知られるのです。
【解説】
続けて法然上人は、『観無量寿経』全体の構造を踏まえて二つ目の回答をお示しになります。
そもそも釈尊は、この経典において、大きく分類して2種類の浄土往生の行を示されました。それは、①さまざまな宝によって飾られた大地や樹々・池・楼閣などの極楽浄土の様相、阿弥陀仏や観音菩薩・勢至菩薩のお姿を心を静めて観想する〈定善の行〉、②両親への孝行、三宝(仏教徒が大事にすべき仏・その教え・仏教教団)への帰依など、日常の心のままでも修めることができる〈散善の行〉です。その内容については第12章で詳細に解説されますが、この問答で取り上げられている九品は、②散善の行に含まれます。
釈尊がこれらお念仏以外の種々の行を示されたのは他者からの要請に基づくものであり、経典の末尾で釈尊は、「阿弥陀仏の名号を保持して、後の世に伝え遺すようにいたしなさい」とご自身の本意を言い遺されました。
本章で法然上人が、釈尊が人々に諸行を修めることをやめさせ、最終的にお念仏一行に帰依させるため諸行を説いたとする「廃立の義」を解説するにあたり引用された善導大師の『観経疏』の一節は、この釈尊のお言葉を解釈されたもので、大師は「定善や散善を説き明かされたものの、釈尊の本意は、すべての衆生に阿弥陀仏の名号をとなえさせることにある」と述べられています。
このように法然上人は、『観無量寿経』全体の構造を踏まえたうえで、釈尊と善導大師のお言葉を直接的なよりどころとして、経文の中にお念仏が明示されていなくとも、浄土往生を願う者の往生の様相が描かれる九品のすべてにお念仏が説かれていることを段階的に導き出されたのです。
この問答をもって『無量寿経』におけるお念仏とその他の行の関係を明らかにする第4章は終了します。


- 林田 康順(はやしだ こうじゅん)
- 大正大学仏教学部教授
- 慶岸寺(神奈川県)住職
- 法然浄土教、浄土宗学が専門。『浄土宗の常識』(共著、朱鷺書房)、『法然と極楽浄土』(青春新書)ほか、著書・論文など多数。