心ゆくまで味わう 法然さまの『選択集』 第33回
浄土宗で〝第一の聖典〟と位置づけられる書物『選択本願念仏集』(『選択集』)。「極楽往生を遂げるためには、何より〝南無阿弥陀仏〟とお念仏をとなえること」とする浄土宗の教えを、宗祖法然上人(1133ー1212)が微に入り細に入り説き示された「念仏指南の書」ともいえるものです。大正大学教授・林田康順先生に解説していただきます。
第5章 念仏利益の文②
||味わい方
このコーナーでは、『選択集』の現代語訳と林田先生による解説を掲載しています。
現代語訳部分は、篇目(章題)、引文(内容の根拠となる文章の提示)、私釈(引文に対する法然上人の解釈)で構成されています。
【私釈】
(三輩の異なりの)二つ目の、「となえるお念仏の数の多い少ないによって三輩を峻別する」とは、次のようなことです。下輩について説いた経文の中に、「わずか十遍のお念仏や一遍のお念仏であっても」と具体的な数が記されています。このことから、上輩や中輩については、下輩に準じてその数を増加すればよいのです。
善導大師の『観念法門』には、「毎日、一 万遍の念仏をとなえ、また1日6回のお勤めのたびに、阿弥陀仏や極楽浄土の荘厳を礼拝し讃歎すべきである。大いに努め励みなさい。あるいは、毎日三万遍や六万遍、さらには十万遍の念仏をとなえる者はみな、上品上生に往生を遂げる人である」と述べられています。つまり、お念仏を毎日三万遍以上となえれば、九品の最も高い階位である上品上生に往生が叶い、毎日三万遍以下であれば上品中生以下に往生することを知るべきです。このことから、となえるお念仏の数の多い少ないによって三輩を峻別することが明らかになりました。
本章の引文で取り上げた『無量寿経』の結論部分に説かれる「一遍の念仏」とは、第3章で引用した念仏往生の願が完成していること(願成就)を明かした文の中に説かれる「一遍の念仏」と、第4章で引文として取り上げた下輩の文の中に明かされる「一遍の念仏」を指しています。
しかし、願成就の文の中に「 一 遍の念仏」を説かれたとはいえ、そこでは、釈尊はその功徳として大きな利益がもたらされることを明らかにされませんでした。同様に下輩の文の中でも、そのことを明らかにされませんでした。しかし、この『無量寿経』の結論部分に至って、はじめて釈尊は「一遍の念仏」に実に大きな利益がもたらされることを説き明かし、この上ない最高の功徳が具わっていることを讃歎されたのです。こうした利益や功徳を具えるお念仏こそ、まさに願成就文や下輩の文に説かれる「一遍の念仏」を指していることを知らなければなりません。
この「大きな利益」とは「小さな利益」に対する言葉です。つまり釈尊は、菩提心(さとりを目指す心)をおこすなどの諸行は小さな利益に留まり、お念仏はわずか一遍であったとしても大きな利益がもたらされると説き明かされたのです。
また「この上ない最高(無上)の功徳」とは、「さらに上がある(有上)相対的な功徳」に対する言葉です。釈尊は、諸行をさらに上のある功徳に留まるとし、お念仏はこの上ない無上の功徳を具えると讃歎されたのです。
釈尊は、わずか一遍のお念仏に 一 つの〈無上の功徳〉が具わると讃歎されました。つまり、十遍のお念仏には十の〈無上の功徳〉、百遍のお念仏には百の〈無上の功徳〉、千遍のお念仏には千の〈無上の功徳〉が具わっていることを知るべきです。このようにお念仏の数を積み重ね、少ないお念仏から多いお念仏に至り、ガンジス河にある無数の砂の数ほどにお念仏をとなえたならば、〈無上の功徳〉もまた量り知れないものとなって念仏者にもたらされるのです。こうしたことをよく知っておくべきです。
したがって浄土往生を願う人々は、無上の功徳を具え、大きな利益をもたらすお念仏をとなえずに、相対的な有上の功徳に留まり、小さな利益しかもたらさない諸行をあえて修める必要などないのです。
【林田先生の解説】
この章で法然上人は、『無量寿経』で念仏往生を願う人の資質や往生の様子を描いた三輩それぞれに、お念仏が説かれている理由には二つあるとされました。前号では、まず、となえる人の心が浅いか深いか、すなわち経典の心のままにとなえられるかどうかで、三輩に配当されることを紹介しました。今号では、となえた数が多いか少ないかによって三輩に配当されることが説かれます。
法然上人は『観念法門』に基づき、毎日三万遍以上お念仏をとなえれば上品上生に該当すると示されます。その点について上人は『無量寿経釈』で「日課三万遍のお念仏は上品の勤め、日課二万遍のお念仏は中品の勤め、日課一万遍のお念仏は下品の勤め」と、より具体的に述べられています。いずれにしても上人の思いは「お念仏の数を多く定めるのは、私たちの心を励まして常にお念仏を相続してとなえるためです。数を定めること自体が大切なわけではありません。数を定めないと怠る原因になりますから、数を定めるように勧めているのです」(『或人の問に示しける御詞』)と述べられるように、お念仏の継続にあるのです。
続けて上人は、引文で用いた『無量寿経』や『往生礼讃』に説かれる「一遍の念仏」が、第十八願の願成就文や下輩の文にある「一遍の念仏」と同じだと指摘されます。これらの箇所では、わずか一遍のお念仏であっても浄土往生が叶うと説かれ、このことから釈尊は、「一遍の念仏」に大きな利益とこの上ない功徳が具わっていると讃歎されました。
さらに法然上人は、浄土一宗の独立を目指し、阿弥陀仏の本願の力が加わるお念仏と比較して、諸行を小さな利益、上がある功徳に留まることを明らかにされたのです。
本章の最後に法然上人は、あえて諸行を修める必要はなく、お念仏を相続することを訴えられます。上人が、「阿弥陀仏は、お念仏を一遍となえれば、1回の往生が叶う功徳を込めて本願を立てられました。ですから、お念仏を十遍となえれば10回の往生が叶うほどの功徳があるのです。それほどお念仏が尊いことを心得て、お念仏をとなえる身となったその日から、命尽きる時までにとなえた一生涯にわたるお念仏の功徳を取り集めて、ただ一度の往生は必ず遂げられるのです」(『禅勝房にしめす御詞』)と述べられたように、私たちは、現世ではお念仏をとなえて阿弥陀仏の光明に照らされた心安らかな日々を送り、命終えた時には阿弥陀仏の来迎にあずかって必ず浄土往生を遂げさせていただくのです。

- 林田 康順(はやしだ こうじゅん)
- 大正大学仏教学部教授
- 慶岸寺(神奈川県)住職
- 法然浄土教、浄土宗学が専門。『浄土宗の常識』(共著、朱鷺書房)、『法然と極楽浄土』(青春新書)ほか、著書・論文など多数。