浄土宗新聞

聖徳太子が国造りに用いた仏教の教え 三宝

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今年で1400回忌にあたる聖徳太子(574-622)。その功績の一つに、政治の中心にいる官人や貴族に道徳規範を示すための「十七条の憲法」の制定があります。仏教を深く信仰していた太子はそのなかで、「篤く三宝を敬え」と、仏教で重要視される「三宝」を大切にするように述べました。今号では、聖徳太子が政治の中心に据えられた「三宝」についてお話しします。

聖徳太子と十七条の憲法

日本に仏教が伝来した年には諸説ありますが、『日本書紀』には552年、『元興寺縁起』『上宮聖徳法王帝説』には538年とあります。聖徳太子が生まれたのは、そこから少し後の574年。厩戸皇子とも呼ばれ、用明天皇(在位585?―587)の第二皇子であったといわれます。
そのころの日本では、仏教を容認するか否かで対立が起こっていました。幼いころから仏教を深く信仰していた聖徳太子は同じく仏教に帰依した蘇我稲目と結びつきを深めました。その後、稲目の勢力のはたらきかけによって、仏教は日本古来の神々とともに崇められる対象となります。
若くして聡明であったといわれる太子は、593年に叔母の推古天皇(554‐628)が即位すると、わずか20歳で君主に代わって政治を行う摂政となり、蘇我稲目とともに天皇を中心とした国家の確立を図りました。
その政策の一つ、「和を以て貴しとなす」から始まる「十七条の憲法」はご存じの方も多いでしょう。これは、当時の官人や貴族の政治に対する心得を正すべく制定されたもので、その第2条の冒頭には、「篤く三宝を敬え。三宝とは仏法僧なり」とあり、第10条でも、我も人も凡夫であるから、「人の違うことを怒らざれ」と説いています。
特に、政治の中心となる人々に、仏教で大切にされる三宝を敬うよう示したこの条文からは、太子がまさに仏教の考えに基づいて国造りをしようとしていたことがうかがえます。
では、聖徳太子が政治の中心に据えようとした「三宝」とは一体どのようなものでしょうか。

仏教徒が大切にすべき三宝

聖徳太子が篤く敬うよう述べた「三宝」。これは、条文にも書かれているように仏・法・僧という仏教で最も大切にしているもの。仏教では古くから時代や国を問わず、まずこの三宝に帰依することが仏教徒になる第一歩とされ、非常に重要視されてきました。
「仏」とは、さとりを開いた存在である仏さまのことをいいます。
私たちは日々、貪りや怒り、迷いというさまざまな欲望や負の感情のなかで生きています。それらから解き放たれた仏さまの姿を目指すことは、煩悩から解き放たれた明るい生活につながるといえるでしょう。
「法」とは、その仏さまが迷いから脱するために説かれた教えのこと。私たちは日常のさまざまな出来事のなかで迷い、ときに過ちを犯してしまうこともあります。その正誤の指針となる仏さまの教えに従うことで、正しい、よりよい生活につながるといえます。
「僧」とは、その教えに従って生活をする仲間たちのこと。
私たちは、さまざまな人とのつながりの中で生きています。同じく仏教の教えの元に生きている人はもとより、自身に関わるすべての人と支えあい、励ましあい、思いやりをもって生きることは、よりよい社会を築くことにつながるといえます。
争いの時代に生まれ、仏教を篤く信仰した聖徳太子は、この三宝に基づいて国造りをすることで、人々が欲望に惑わされず、正しい生活を送り、そして争いのない国を作っていくことを目指そうとしたのではないでしょうか。

明るく・正しく・仲良く

聖徳太子が、国造りをする上で指針とした三宝ですが、これは決して現代を生きる私たちと無縁なものではありません。
浄土宗では、日々となえる「日常勤行式」のなかに「三宝礼」というお経があります。これは、先ほども述べた仏・法・僧に帰依し、礼拝するもので、それを唱えることで、この三宝に従った生活を意識し直すことができます。
明治から昭和期の浄土宗僧侶で大本山増上寺の第82世・椎尾弁匡台下は三宝に対する帰依の精神・生き方を「明るく・正しく・仲よく」と表現されました。
日々の生活で、私たちは三宝に説かれることと真逆のことをしてしまいがちですが、感謝の気持ちを忘れずに毎日を笑顔で「明るく」過ごし、わが身を振り返りながら人生を「正しく」歩み、思いやりと敬いの心をもって「仲よく」生きることを誓って、過ごしたいものです。


太子信仰と日本仏教の祖師たち

親鸞が太子の夢告を受けたとされる六角堂(頂法寺・本堂)
親鸞が太子の夢告を受けたとされる六角堂(頂法寺・本堂)

仏教興隆に尽力した太子を聖者と仰ぐ太子信仰が盛んとなり、中世・近世に最盛期を迎えました。
太子信仰の中心寺院の一つであった四天王寺(和宗総本山・大阪市)には、平安から鎌倉時代の新仏教の開祖である最澄(天台宗)、空海(真言宗)、良忍上人(融通念仏宗)、法然上人(浄土宗)、親鸞聖人(浄土真宗)、一遍上人(時宗)などが参篭(寺院などにある期間こもって祈願すること)したことも知られています。
また、親鸞聖人は京都市中心部にある六角堂(頂法寺)に百日参篭したとき、95日目の暁に聖徳太子の夢告(神仏が夢において何らかの意思を示し告げること)を受けたと伝わり、それから、吉水の草庵に法然を訪ねて、専修念仏に帰依し、その門下に入ったとされています。
太子は没後も、日本仏教の祖師たちに影響をあたえ信仰されました。