浄土宗新聞

【お坊さんエッセイ】シャボン玉を吹くおだやかさで

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【お坊さんエッセイ】シャボン玉を吹くおだやかさで

まぶしいほどの緑の樹々が生い茂る公園でシャボン玉が吹かれています。青空に打ち上げられた七色に輝く小さな球体は、風に乗ってどんどん運ばれていきます。あっ、私の胸元あたりまでやってきます。次の瞬間、目前でパチン!気づいたら頬が少しほころんでいました。
息子が生まれてから、公園でこんな場面に遭遇することが多くなりました。シャボン玉は明らかに人工物であるにも関わらず、不思議と自然に調和して、そわそわ心を浮き立たせてくれます。春の季語でもあるのだそうです

自分でも、ずいぶん久しぶりにシャボン玉を吹いてみました。すると、なんだかやさしい、おだやかな気持ちになりました。どうやら幼い頃の無邪気な楽しみ方とはちょっと違うようです。

シャボン玉といえば、まず思い出すのが「しゃぼん玉飛んだ 屋根まで飛んだ」ではじまるあの童謡。子どもたちがにぎやかに遊んでいるイメージですが、「生まれてすぐに こわれて消えた」の歌詞は、幼くして亡くなる子どもの死を悼んで書かれたとする説もあるようです。確かにシャボン玉には、こわれやすい、儚いというイメージもつきまといます。

実際に「しゃぼんだま」というタイトルがついた歌謡曲を調べてみました。調べた数十曲のうち、実に6割以上が恋愛をテーマとする歌で、「はじけた」「消えた」「もう戻ってこない」という恋の儚さや不安をイメージする題材とされていました。一方、ポジティブな側面としては「ふわりふわふわ」「遠くまで想いを乗せて運んでくれる」「夢のように膨らむ」「かがやく虹色」などが描かれていて、ほかにも「いつかは消える、そうしたらみんなで新しく作ろう!」という、マイナスを踏み越えて進もうとするひたむきな歌詞には思わず唸らされました。

シャボン玉自身の意志とはまったく無関係に、私たちはいつの間にか、ネガティブにしろポジティブにしろ、自らの人生観をあの七色の球体に投影してしまっているようです。私の場合は、仏教を学んできたなかで、いつのまにか「泡沫」という感じの、ややネガティブなイメージを色濃くしていました。
ところが、そんな思いとは裏腹に、久しぶりのシャボン玉はなんだか心が浮き立ってしまいます。どうしてだろう、とぼんやり考えながら、もう一度飛ばしてみました。風に乗って遠くまで届けられたシャボン玉の群れに、風下の子どもたちが嬉々として戯れています。これが思いのほかうれしいのです。

そうだ! 自分で作り飛ばしたはずのシャボン玉は、もう誰のものでもありません。もはやその所有権は私のものではなく、いつの間にか、この世界の公共物になっていたのです。きっと泡膜がはじけて消えゆくその前に、すでに世界に開かれて溶け合いはじめていたのでしょう。そして、ボールやフリスビーとは違って、誰かのもとに飛んでいってしまっても、あっさり所有欲を断つことができて、そのことを素直に喜べています。自分のなかに閉じられていたものを手放し、心を開いて共に生きていこうとする、いわばお布施という修行のプチトレーニングになっていたのかもしれません。お布施には衣食や金銭の施しだけでなく、仏教の学びを得て怖れが除かれること、笑顔や譲り合いの気持ちを施すことも含まれるのです。

シャボン玉ひとつをとってみても、心の持ちようや見方次第で、幼い頃のよき思い出にも、恋や命の儚さの象徴にも、想いを運んでくれる媒介物にも、そして共に生きる世界の意味を学ばせてくれる教材にも変わります。いまは誰もが、閉じられたマスクのなかに声をひそめて生活しています。お念仏ひとつ称えることさえ憚られる場面もあるかもしれません。
それでも、シャボン玉を吹くおだやかさで、誰かを想うやさしさを込めて大きく息を吸い、共生(ともいき)の願いが世界に開かれることを信じて、たとえ小さくとも力強くお念仏の声を大空にあげ放ちたいと思います。

(2020年6月10日 工藤量導 / 青森・本覚寺)