浄土宗新聞

日々のおつとめ―浄土宗日常勤行式 第11回 「一枚起請文」➁

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上人最後の教え 「 一枚起請文」

前回に引き続き、法然上人のご遺言ともいえる「一枚起請文」を解説します。今回は後半部分を中心に説明します。

この外に奥ふかき事を存ぜば、二尊のあわれみにはずれ、本願にもれ候うべし。念仏を信ぜん人は、たとい一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらに同じうして、智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし。
証のために両手印をもってす。
浄土宗の安心起行この一紙に至極せり。
源空が所存、この外に全く別義を存ぜず、滅後の邪義をふせがんがために所存をしるし畢んぬ。
建暦二年正月二十三日 大師在御判

意訳
かりに私が、この他にさらに奥深いことを知っていながらそれを伏せているようなことであれば、お釈迦さま、阿弥陀さまの慈悲の心からはずれ、本願による救いからもれてしまうでしょう。念仏を信じる人は、たとえお釈迦さまの教えをよく学んでいても、自分は経典の一文さえわからない愚かな者と受けとめ、知識のない者と同じように、智者ぶったふるまいをしないで、ただひたすらに念仏に励むべきです。
以上に申し上げたことは私の教えとして誤りがない、という証のために両手印を押します。
浄土宗の信仰心の持ち方とその実践についてはこの一枚の紙に記したことに尽きます。私(源空・法然上人)が存ずるところは、これ以外にありません。私の死後、誤った考えが何も出ないように、思うところを記しました。
建暦二年一月二十三日。(法然上人の署名と花押)

【資料】毎日のおつとめ


後半は、「この外に奥ふかき事を存ぜば、二尊のあわれみにはずれ、本願にもれ候うべし」の一文ではじまります。ここでいう「この外」とは、前半部分で様々に示してきた、お念仏をするための心構えのことで、お念仏によって必ず往生がかなうと確信すること、さらにその確信ですらも念仏を継続するうちに自然に具わる、ということをいっています。
そしてここでは、法然上人ご自身があらためて、「お念仏をとなえる以外に特別な方法も隠しだてもありません」と誓い、さらに、それが偽りであったならば、私自身が釈迦如来と阿弥陀如来の二尊の救いからもれ落ちてしまうでしょう、とおっしゃっています。

ただひとすじに


このような宣言をした法然上人ですが、そのお念仏の実践方法についてはどのように示されているのでしょうか。続いての意訳に、念仏を信じる人は、たとえ仏教をよく学んでいても、その経典の一文さえわからない愚かな者と受けとめて、とあります。
人というのはおごり高ぶりの心を起こしやすいものですが、それは学問を積んだ人にはとかくあらわれがちのようです。
法然上人は『選択本願念仏集』撰述の時、その筆記の任にあった弟子が「私は人より書が上手だからこの任を与えられた」と言ったことに対し、「この弟子は高慢の心を起こしている」、とその任から外したといいます。また、上人は多くの経典に学び、周囲の人からは「智慧第一の法然房」と呼ばれましたが、ご自身では、戒のひとつも守れない「愚痴の法然」と称されていました。
このように、念仏をとなえる時はおごり高ぶることなく、ひたすらに念仏をおとなえする、ただそのことだけに尽きるのです。

後々まで


そもそも、 「起請文」というのは、多くは神仏に対して誓うこと、つまり、大いなる存在に対して偽りのないことを宣言するものですが、この「一枚起請文」ではさらに、ここまで述べたことに誤りがないことの証しとして「証のために両手印をもってす」として両手で手印(手形)を押しています。そして、「浄土宗の全てをこの一紙に記しました。私、源空(法然上人)が存じていることはこれ以外ありません」と念を押すように繰り返したあと、 「私の死後、誤った考えが出ないようにこれを書きました」と結んでいます。
実は法然上人在世中も、直々に秘密の教えを受けた、とか、普通の人にはあまりに高度なので本当の教えはまだ説いていない、といった噂が流れており、それは上人自身の耳にも聞こえていました。
法然上人は、それらの風聞や間違った流布によって称名念仏の正しい教えが廃れないよう、そしてきちんと伝わるように起請文という形をとって、教えの真髄を伝えたのです。
お念仏の教えを余すところなく記した法然上人の御遺訓である「一枚起請文」 。ゆっくりと噛みしめるようにお読みになり、一心にお念仏をとなえてください。

―次回は「摂益文」を解説します。

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