浄土宗新聞

浄土宗のお坊さんと見る一作:3『もののけ姫』

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全3回にわたって、広く親しまれている漫画やアニメの中から、浄土宗僧侶がオススメの一作を仏教及び浄土宗的な観点から紹介します。(隔週更新)


『もののけ姫』
原作・脚本・監督:宮崎駿  プロデューサー:鈴木敏夫
制作会社:スタジオジブリ  公開日:1997年7月12日
作品紹介ページ:https://www.ghibli.jp/works/mononoke/

許せない、それでもいい

監督・宮崎駿は本作について次のように述べている。「描くべきは、少年の少女への理解であり、少女が、少年に心を開いていく過程である。少女は、最後に少年にいうだろう。「アシタカは好きだ。でも人間を許すことはできない」と。少年は微笑みながら言うはずだ。「それでもいい。私と共に生きてくれ」と。そういう映画を作りたいのである。」(『ジブリの教科書10 もののけ姫』、文藝春秋、2015)
『もののけ姫』にはそう簡単に答えの出ない問題がいくつも描かれている。主人公が少年でありながら村を守るためにタタリ神と戦い、村を守ったにもかかわらずタタリを受け、村から離れざるを得なくなったという不条理。そのタタリを癒す可能性を求めて訪れたシシ神の森の人間をきらう者たちに見る人間の業。その森を切り開いて鉄の資源を得ようとするタタラ場の主の合理主義に生きる姿と、その間におこる争い、憎悪。ハンセン病と思われる者達が隔離されている状況と、隔離されながらも仕事を与えられ社会を築いている姿に描かれる人権の問題。どうすればいいのかという苦悩が見れば見るほど浮き上がってくるのである。
私達が生きるこの世界を、法然上人は「穢れ厭うべき土」と理解され、そこに生きる私達は「凡夫」であるとおっしゃっている。私達がもし不自由なく生きているとしても、見えないところ、見ようとしないところでは、不条理に苦しみ、悩み、救われる道を命からがら探している人がきっとたくさんいる。そしてまた、私達もそうした方々が救われることを願いながらも、「これでいいのだろうか」と常に苦悩するのである。
そうした物語の中、最後に主人公は「許せない」という少女の想いすら否定せず、「そのままでいい、共に生きよう」と受け止めるのである。「どうしてなんだ、何なんだ」と苦悩する状況で、何よりも救われることは、「ああしろ、こうしろ」と言われることではなく、「それでいい」といってもらえることではないかと思う。細かいことはその後でいいのである。そして、「それでいい」その一言を伝えられること、それが「穢土」を生きる私達「凡夫」のできる精一杯のことなのではないだろうか。そのことを改めて考えさせてくれた作品である。


評者紹介:郡嶋 昭示(ぐんじま しょうじ)
千葉教区常行院住職。大正大学卒。大正大学非常勤講師。浄土宗総合研究所研究員。二祖聖光上人を中心に研究している。