心ゆくまで味わう 法然さまの『選択集』 第16回
浄土宗で〝第一の聖典〟と位置づけられる書物『選択本願念仏集』(『選択集』)。「極楽往生を遂げるためには、何より〝南無阿弥陀仏〟とお念仏をとなえること」とする浄土宗の教えを、宗祖法然上人(1133ー1212)が微に入り細に入り説き示された「念仏指南の書」ともいえるものです。大正大学教授・林田康順先生に解説していただきます。
第3章
弥陀如来余行を以て往生の本願となしたまわず。唯念仏を以て往生の本願となしたまえるの文
①
||味わい方
このコーナーでは、『選択集』の現代語訳と林田先生による解説を掲載しています。
現代語訳部分は、篇目(章題)、引文(内容の根拠となる文章の提示)、私釈(引文に対する法然上人の解釈)で構成されています。
【前回】
第1章・第2章を通じて法然上人は、
①全仏教の中から、この身このままでさとりを開くことを目指す〈聖道門〉を後回しにし、まずは阿弥陀仏の極楽浄土に往生して、そこでさとりを開く〈浄土門〉に入る。
②浄土門では、阿弥陀仏に疎遠な行である〈雑行〉を捨てて、阿弥陀仏に親近な行である〈正行〉に帰す。
③正行のうち、「浄土三部経」を読誦するなどの4種の行である〈助業〉を傍らにして、必ず浄土往生が定まるお念仏〈正定業〉を専ら修める(専修念仏)。
と、段階を踏んで私たちをお念仏へと導かれました。本章では、お念仏をとなえる根拠について説き明かされます。
【篇目】
阿弥陀仏が、他のさまざまな行を浄土往生のための本願の行としてお誓いにならず、ただお念仏一行を本願の行としてお誓いになられたことを明かす章です。
【解説】
いよいよ法然上人は、本書の正式名称『選択本願念仏集』にある「選択本願念仏」の意味内容とその画期的意義について取り上げられます。
【引文】
浄土宗がよりどころとするお経の一つ『無量寿経』には、次のように書かれています。
「もし私(法蔵菩薩)が仏(阿弥陀仏)となった暁には、あらゆる世界の衆生(命あるもの)が、まことの心をもって私の救いの働きを深く信じて私の浄土に往生したいと願ったならば、生涯を通じて念仏を相続した者から、わずか十念した者まで、その願いを叶えよう。もし往生が叶わないようであれば、私は決して仏とならない」
善導大師(法然上人が師と仰いだ高僧)はその著書『観念法門』において阿弥陀仏によるこの誓願を味読し次のように述べられています。
「もし私が仏となった暁には、あらゆる世界の衆生がわが浄土に往生したいと願って私の名前をとなえること、わずか十遍の者に至るまで、私の誓願の力に乗せてその願いを叶えよう。もし往生が叶わない者がいるようであれば、私は決して仏とならない」
また、同じく著書である『往生礼讃』には次のように書かれています。「『もし、私が仏となった暁には、あらゆる世界の衆生が私の名号をとなえること、わずか十遍の者に至るまでその願いを叶えよう。もしその往生が叶わない者がいるようであれば、私は決して仏とならない』そのように誓われた阿 弥陀仏は、今、現に極楽浄土にいらっしゃって仏となられている。阿弥陀仏が菩薩時代に立てられた慈悲深い誓願は決して虚しいものではなく、衆生が念仏をとなえれば必ず浄土往生は叶うことを知らねばならない」
【解説】
以上のように法然上人は、①『無量寿経』に説かれる阿弥陀仏の四十八願のなか第十八願の文、そして②『観念法門』と③『往生礼讃』に説かれる善導大師による第十八願の趣意文を引文に据えられます。このうち①こそ、阿弥陀仏の誓願に順じて、私たちがお念仏をとなえる根拠に他なりません。 そして、②③で善導大師は、①に説かれる「十念」を「名字(名号)を称する」「十声」と味読され、これまで「仏を観想し念ずる」ととらえることが主流だったお念仏を、口にとなえる「称名」であると提起されたのです。法然上人は、③の一節が48文字であることに思いを運び、「この文は四十八願のまなこ也、肝也、神也。四十八字にむすびたる事は、このゆえ也」(『示或人詞』)と仰がれています。
【私釈】
私(法然)の解釈を申し述べます。すべての仏は、衆生を救うための誓願を立てます。これには、総願と別願という2種類があります。
総願とは、すべての菩薩に共通する四つの誓願のことです。別願とは、釈尊による500の偉大な誓願や薬師如来による12のすぐれた誓願など、仏それぞれに立てられる誓いのことです。今ここに述べる四十八願は阿弥陀仏による別願です。
【解説】
ここで法然上人が言及される総願とは、①すべての衆生を救おう(度)、②すべての煩悩を断とう(断)、③すべての教えを知ろう(知)、④この上ないさとりを体得しよう(証)という4段階からなります。
①の衆生救済(利他)を実現するため、②③④を全うすること(自利)を目指すのです。それはまさに大乗仏教の根本精神と重なるのであり、この共通する総願の上に仏・菩薩はそれぞれ特有の別願をお立てになるのです。
【私釈】
〈質問します〉阿弥陀仏は、いつごろ、いかなる仏のもとで、この四十八願をお立てになったのですか。
〈お答えします〉『無量寿経』には次のように述べられています。「釈尊が阿難に告げられた。量り知れないほどのはるかな過去世において錠光如来が世に現れて、数え切れないほどの衆生を教化して迷いの世界から離れ出させ、さとりの境地へと救い導かれた後、ご入滅された。次に光遠という名の如来が出現された。(中略)次に処世という名の如来が出現された。こうして53の諸仏が出現されたものの、すべての仏がすでにご入滅された。
【解説】
ここから法然上人は、阿弥陀仏による四十八願の建立とお念仏の選定の淵源として『無量寿経』を引用されます。次回はいよいよ「選択」の語が登場します。
- 林田 康順(はやしだ こうじゅん)
- 大正大学仏教学部教授
- 慶岸寺(神奈川県)住職
- 法然浄土教、浄土宗学が専門。『浄土宗の常識』(共著、朱鷺書房)、『法然と極楽浄土』(青春新書)ほか、著書・論文など多数。