浄土宗新聞

【浄土宗の読む法話】八十八回の手間

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「米は八十八回手間がかかるから米って書くんだよ。」そんな忘れてしまったような言葉が自分から出てくるとは思いもよらなかった。

八年ほど前、寺に田が戻ったのがきっかけとなり米作りをはじめる事となった。田んぼで米を作ったことなどまるでなく、何とかせねばということで素人の怖さ、「無農薬」しかも「手植え・手刈り・はさ掛け」と昔ながらの方法で黒米を作ると言う大それた事となった。田植えの当日、地元新聞の記者が取材に来るという。田植えなど珍しくもないが「黒米」しかも手植えと言うことで寺の世話人の一人が声を掛けてくれた結果である。

わずか四畝の田で詠唱講の早乙女たちが、横一線に張った綱を基準に苗を植えながら後ろ向きに進んでいく。ほぼ終わりかけの頃、記者も到着、早速取材を受ける。なぜ農業の機械化が進んだ中で、手作業で稲作に取り組んだのかの話である。田を手がけたことがないド素人が解った風なことを言うのだから恥ずかしい限りである。そんな話の中で米作りは手間暇がかかることから、八十八回の手間の話が出た。驚きはそこから。
若い記者は八十八回の話を知らなかった。しかしよく考えてみると、私も米を作る現場に入るのは初めてでリアルに八十八回の体験をしたわけではない。むしろ「米は八十八回手間がかかるから一粒も粗末にしてはいけないんだよ」と言葉で知っていただけである。後々八十八回の意味をいやというほど知るところとなるが・・・。

ほとんど機械化され、肥料や農薬の助けを借りて、省力化が図られている農業の時代にあらがうが如き、昔ながらの作り方をしてみた。
農家の人から観れば「そんな甘いもんじゃない」そんな声が響いてきそうだ。

簡単、安易と形容される時代ではあるが、その中で流されている私がいる。八十八の手間暇を掛けて人生を送っているだろうか。安易、怠惰そのものの人生を送る我が身が愚かしい凡夫であるが気づくことはなかなか難しい。わかったふりをすることでこの世を渡っていく事がどれほどあったことか。愚かしい我が身に気づき、人生を救うて下さる阿弥陀様に身をまかせ、生かされている自分に気づき、わが身に添うた修行、それがまさにお念仏をお称えすること。「気づけよ、気づけよ」と諭していただけども気づけない私だからこそ、身に添うはお念仏なのだ。


十月半ばに刈り入れ、稲束をはさ掛け。その頃は稲穂の馥郁とした香りにつつまれ、雑草と格闘した(特に稗)日々を忘れさせる。はさ掛け乾燥後、脱穀そして精米、収穫を迎える。その収穫に感謝し「ありがとう」その言葉の意味- 有り難い-、そして一粒一粒の米に命の宿る尊さををかみしめながら。

合掌 
南無阿弥陀仏

伊勢教区 香肌組 蓮浄寺 堤 康雄