浄土宗新聞

【浄土宗の読む法話】「運動会」

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暑い夏が終われば秋、隣の小学校でも10月に運動会が開催されました。

練習の毎日、朝1限目から練習に明け暮れています。真隣りなので「やかましい」と思うけれども、まぁ運動会までの辛抱・・・。「ダンス」や「集団行動」などはどうなる事やらと他人事でも心配であるがどうにか仕上がった様子。前日は練習もなく入退場門・テント・ライン引き等々準備、さぁ明日は楽しい運動会です。

早朝3時起きてみると「怪しげな人影」が。片手に懐中電灯、片手にシート、そう「場所取り」をしているのです。朝6時役員集合後、校長先生の号令「本日は晴天なり。場所取りは朝7時と決まり事ですので、今、場所取りのシートは撤去して下さい」渋々従ってシートは取り除かれました。現に校門前に100名程待機。7時校門開き一斉に見やすい席を求めて走って場所取りが始まりました。トラックの周囲がシートで埋め尽くされ場所取りも一段落。
さぁ開会式 個人・団体競技から1・2年生の遊技発表。午前の最後は3・4年生の「恋ダンス」、お昼は各家庭自慢の弁当、生徒達が観覧席の家族の元へ、午後の部が始まりPTA・地域の役員さん等恒例の玉入れ・綱引き、本日の大取はやはり5・6年生の「集団行動」。毎日先生の指導と猛練習、さぁ本番どうなることやら。イチ、ニと声を出し、足を揃えて行進1列から2列4列と別れてから縦に横に斜めに見事に交差。あの愚蛇愚蛇(ぐだぐだ)はどこへやら、完璧な「集団行動」で観覧者一同拍手の嵐。毎日の生徒達の練習のおかげで成功裏に運動会の幕が閉じました。

思えば夏休み明けから生徒達は運動会に向かって目標を目指して頑張って来たのです。
運動会で走り、跳ね回って運動する姿に親たちは釘付けになり感動するのです。けれども其の姿は我が子、我が身内にしか目を向けていない事でもある。我欲の世界そのものです。
其の姿を見たいが為に我先に席を取り、其の姿を記録するためにスマホやカメラを必死に向けていく、他人様よりも我が子しか見えていない、執着の世界そのものであります。
けれども私はどうかと云えば、その中の一人であった事実に愕然とするところであります。わが身の愚かさを垣間見るような瞬間です。

法然上人のお言葉に「一人一日のうちに八億四千の念あり念々の中の所作皆これ三途の業なりと」と説かれますが、我らの浅ましい姿を考えますと、「われが われが」の世界に陥っている情けない自分の姿が見えてまいります。そんな姿に気づく瞬間はあるのでしょうか。元気で精一杯できたらいいじゃないか。頂いた命だもの。だからありのままでいいのだと思えば其のありがたさに頭を垂れずにはおられません。生かされているわたくし気づき、阿弥陀仏様の名を称える事がこんな情けない私に只一つ身に添うと心得てお念仏するのことが大切です。南無阿弥陀仏ととなうれば阿弥陀様に救われて往く極楽浄土があるのですから。

南無阿弥陀仏。
合掌 

伊勢教区 山田組 蓮華寺 新美尚彦