浄土宗新聞

心ゆくまで味わう 法然さまの『選択集』 第3回

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浄土宗で〝第一の聖典〟と位置づけられる書物『選択本願念仏集』(『選択集』)。「極楽往生を遂げるためには、何より〝南無阿弥陀仏〟とお念仏をとなえること」とする浄土宗の教えを、宗祖法然上人(1133ー1212)が微に入り細に入り説き示された「念仏指南の書」ともいえるものです。大正大学教授・林田康順先生に解説していただきます。

前回は、『選択集』の概要についてお伝えしました。いよいよ、第一章から順番にその内容に入ってまいります。

第1章
道綽禅師聖道浄土の二門を立てて、しかも聖道を捨てて正しく浄土に帰するの文

||味わいかた

このコーナーでは、『選択集』の現代語訳と林田先生による解説を掲載しています。
現代語訳部分は、篇目(章題)、引文(内容の根拠となる文章の提示)、私釈(引文に対する法然上人の解釈)で構成されています。

前回の復習】

法然上人による、道綽禅師の著作『安楽集』の引用は、「すべての命ある者(衆生)は、さとりを開いて仏となる可能性(仏性)を具えている」との一文から始まりました。仏教者にとって、仏性を開花させるため、仏道に励むことは何より大切です。しかし禅師は、自らの力でさとりを開こうとする教え(聖道門)は、末法を生きる私たちには到底不可能で、このままでは迷いの世界に留まり続けることになると警鐘を鳴らします。そして、阿弥陀仏の極楽浄土に往生し、そこでさとりを開くことを目指す教え(浄土門)に帰入すべきことを訴えます。

続けて禅師は、あらゆる衆生をさとりに導くための大乗仏教の修行、自身のさとりのみを目指す小乗仏教の修行、さとりを目指さずとも来世に人界や天界という高い位に生まれるための善行を示した上で、果たして私たちにそれらの行を修められるだろうかと問いかけるのです。

【引文】

重ねて言えば、衆生は誰しも、自分の身のほどをわきまえてはいない。

もし大乗仏教の教えによるならば、ものごとのあるがままの絶対的・普遍的な真理(真如)やその相(実相)を体得し、かたより・こだわり・とらわれを離れた境地(第一義空)を目指さなければならないが、いまだかつて、そこに心をよせ、修行し、達成した者は見当たらない。

また、もし小乗仏教の教えによるならば、この世は苦しみに満ちているとの真理、その苦しみの原因、苦しみを滅した状態、苦しみを滅する方法を明らかにした境地(見諦)や、生まれながらに持っている貪り・怒り・愚かさなどの煩悩を滅した境地(修道)に進み、さらには、欲望溢れるこの世界(欲界)に二度と戻らない境地(阿那含)や、もはやこれ以上何も学ぶ必要のない境地(阿羅漢)に至り、あらゆる煩悩を断ち切らなければならない。しかし、出家者であれ、一般の人であれ、いまだかつて、そのような境地に辿り着ける能力を具えた者は見当たらない。

かりに、そうした高い境地でなく、人間界や天人の世界に生まれ変わることができるとしても、それには、「殺生をしない」などの五つの戒律を守り、「かたよったものの見方をしない」などの十の善き行いを勤めなければならないが、今やそれすら守れる者はいない。

一方で、人が悪を犯し、罪を造ることについていえば、その激しさたるや暴風や豪雨と異なることなく、罪悪を積み重ね続けているのが、私たちのありのままの姿ではないだろうか。こうした私たちのありさまをご覧になった仏さま方は、大いなる慈しみの心から、念仏をとなえ阿弥陀仏の極楽浄土に往生する教えをたよりとするよう勧められた。たとえ一生涯にわたって罪を造り続けたとしても、ただしっかりと極楽浄土と阿弥陀仏に心をよせ、精神を集中して常に念仏をとなえ続けるならば、あらゆる障りは除き消されて、必ず極楽への往生が叶えられる。

このように、先ほどから述べてきたような私たちの実情に思いを巡らせるならば、迷いの世界を逃れて極楽浄土に往こうという心を起こさずにはいられないだろう。

【解説】

善行を修めることがままならないばかりか、罪を造り続けているのが私たちの偽らざる姿ではないか。阿弥陀仏はそんな私たちを憐れみ、救いの手をさしのべ、多くのみ仏もそれを勧めている。極楽浄土を求める心を起こさないわけにはいかないだろうー。 道綽禅師による切なる訴えは、法然上人の心の叫びと共鳴したのです。法然上人の私釈が始まります。

【私釈】

ここに引用した『安楽集』の一節について、私(法然)の解釈を申し述べます。

心静かに思いを巡らせてみれば、そもそも仏教の各宗派はそれぞれ、数多くの経典の分類の仕方が異なります。ここではひとまず、五つの宗派についてみてみます。

まず法相宗では、お釈迦さまが生涯に説かれた教えを時間的・思想的に三つに分けています。三論宗では、お釈迦さまの教えを二種に分け、華厳宗では教えの深さによって五種に分け、また天台宗では、すべての経典を、それが説かれた時期と内容の深さの両面で立体的にとらえる方法によって分けており、真言宗ではその教え(経典)をどなたが説いたか(お釈迦さまか、大日如来か)によって分けています。

今、私が立教開宗した浄土宗においては、道綽禅師の理解によれば、次の二つの教えに分けて全ての経典を判別することができます。すなわち、厳しい修行を積み自らの力でさとりを開こうとする教えである聖道門と、阿弥陀仏の極楽浄土に往生し、そこでさとりを開くことを目指す教えである浄土門との二つです。

【解説】

法然上人が例として挙げられた五つの宗派だけでなく、どの宗派も、すべての経典の説示に何らかの基準をあてはめた上で優劣をつけ、もっとも優れた教えを選び取って自宗の教えを構築しています。一方、法然上人は、経典や各宗派の優劣について口にすることは決してありません。法然上人の主張は「私たちの身のほどにふさわしい教えを見きわめよ」という、ただ一点。その答えが浄土宗の教えに他ならないのです。

次回は、「浄土宗」という名称と、拠り所とする経典についてです。

Q&A 教えて林田先生

経典を分類するにあたり、なぜ宗派ごとに異なった方法を用いるのでしょうか?

宗派の成立は中国に遡ります。インドで成立した膨大な経典は、一気に中国にもたらされます。すると中国の僧侶は、お釈迦さまがこれほど多様な経典を説示されたのには、何か意図があったに違いないと考えました。そして、各々が基準を設け、各経典の説示にそれをあてはめて優劣をつけ、もっとも優れた内容だとした経典を選び取った結果、宗派が成立することになるのです。


  • 林田 康順(はやしだ こうじゅん)
  • 大正大学仏教学部教授
  • 慶岸寺(神奈川県)住職
  • 法然浄土教、浄土宗学が専門。『浄土宗の常識』(共著、朱鷺書房)、『法然と極楽浄土』(青春新書)ほか、著書・論文など多数。

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