浄土宗新聞

【お坊さんエッセイ】モノクロームの睡蓮

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【お坊さんエッセイ】モノクロームの睡蓮

ゴールデンウィークが開けるとお寺の池に睡蓮が開花しました。

水面に日の光を透かすようなピンクの花弁を慎ましく広げ、その中心部はイエローが鮮やかです。開花前夜は雷鳴が轟き、強い雨が降りましたが、それに驚いて花が開いたのかもしれません。

朝、日課となっている境内の見回りの中でその一輪を発見し、池にプカリと浮かぶ可憐な姿を逃すまいと、スマートフォンを取り出して、写真に収めました。SNSに日々の境内の様子をアップすることを、新年度になってからのルーティンワークとしていたこともあり、ちょうど良い写真が撮れたと心が弾みました。

2020年当時、4月に出された緊急事態宣言は当初の予定期限から延長され、仏教界でも総・大本山といった大きな寺院が門を閉ざし、街の寺院でも参列者なしで法要を勤めたところがたくさんあったようです。私の勤める横浜の寺も月例の写経会を中止としました。しかし、ただ中止のお知らせをするだけでは何か忍びないと思い、自宅でも取り組める写経の用紙と一通のお便りを同封しました。そこに「お寺の池で睡蓮が咲きました、メダカやおたまじゃくしが元気に泳いでいます」というコメントとモノクロの写真を添えて。

しばらくしてから、お便りを受け取ったお檀家さんから電話がありました。

「実は4月に老人ホームに移ったの。今回、写経の用紙を入れてくれてありがとう、そしてお便りとっても嬉しかった」

電話の向こうから、弾むような声が聞こえてきました。お便りの写真はモノクロームでしたが、長年、お寺に通った彼女の目にはその睡蓮が鮮やかに色づいて映ったのでしょう。そして、その映像を通じて、在りし日の日常を実感したのだと思います。

私たちは、この思いもかけない事態の中で、何気ない日常から遠ざかってしまいました。けれども、電話をくれたお檀家さんは、一通のお便りからそれを感じ取った。失われた日常の痕跡はどこにでもあって、ちょっと目を凝らし、耳をすませば、それが蘇ってきます。

文字や言葉に乗った想いは、日常を閉ざす門を開ける鍵となります。一通の便り、一本の電話、一声の挨拶、優しい言葉を誰かに届け、私たちの日常を取り戻していきましょう。

(2020年6月29日 石田一裕 / 神奈川・光明寺)