浄土宗新聞

日々のおつとめ―浄土宗日常勤行式 第5回 「懺悔偈・ 十念」

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罪を告白、 悔い改める 「懺悔偈・ 十念」

懺悔偈


我昔所造諸悪業 皆由無始貪瞋痴 (がしゃくしょぞうしょあくごう かいゆむしとんじんち)
従身語意之所生 一切我今皆懺悔 (じゅうしんごいししょしょう いっさいがこんかいさんげ)

意訳
私が造り続けてきたさまざまな悪業は、すべて、はるか過去からの貪(むさぼり) 、瞋(いかり) 、痴(おろかさ)の煩悩によります。これはすべて私の行い、ことば、思いから生じたものです。私は今、そのすべてを懺悔します。


十念

南無阿弥陀仏(十遍)

意訳
「南無」とは古くからのインドの言葉「ナマス」を漢字に当てたもので、「おじぎをすること」「あいさつすること」「帰依すること」「崇拝すること」といった意味があります。
「南無阿弥陀仏」とお念仏をとなえることは、「阿弥陀さま、どうぞ私たちの<いのちの行き先>極楽浄土までお導きください」と心から願い出る、私たちの意思表示になります。

【資料】毎日のおつとめ
【動画】浄土宗 毎日のおつとめ 三奉請・三身礼ver
【資料】Web版新纂浄土宗大辞典「念仏」


「懺悔偈」は、「四奉請(三奉請) 」でお迎えした仏さまに自らの悪業を告白し、悔い改める気持ちを表明する偈文です。

では私たちが犯している悪業とは何なのでしょう。
突然に悪業といわれても、いつでも誠実に、懸命に生きている人だっているでしょうに…。
ここでいう悪業とは、偈文にある、貪(むさぼり)・瞋(いかり)・痴(おろかさ)の煩悩から起こす罪をいいます。

【資料】Web版新纂浄土宗大辞典「三毒」

私たちは日常生活の中で、さまざまな欲求を起こしたり、腹を立てたりしてしまいます。また、そのつもりはなくとも、ふいに相手を傷つけていることがあります。場合によっては、その人の人生にさえ影響を与えかねないこともあるでしょう。これらが複雑に絡み合い、数限りない悪業を生んでいくのです。どんなに誠実に生きているつもりでも、こころのどこかで煩悩を抱え、気がつかないうちに悪業を犯していることもあるのです。逆を返せば、だからこそ凡夫なのです。

仏さまへのザンゲ?

一般的には 「懺悔」 を 〝ざんげ〞と読む方が多いと思います。思い出されるのは教会で神さまに向かって罪を告白する、 あの 〝ざんげ〞ではないでしょうか。これに対し仏教では、〝さんげ〞と読みます。
罪を告白し、滅罪を祈るという点では類似する部分もありますが、浄土宗の日常勤行では、「懺悔偈」に続く「十念」が滅罪の方法にあたるといえるでしょう。

法然上人が帰依した善導大師は、その著作『般舟讃』の中で、「念念の称名は常に懺悔なり」といっています。また、『観無量寿経』の経文の中にも、「お念仏は…中略…八十億劫生死の罪を除く」とはっきり示されています。

罪が除かれ、往生がかなうお念仏の教えは誠にありがたいことですが、だから何をしても構わない、ということにはもちろんなりません。法然上人も、煩悩があればあるがままにお念仏すべきことを説いていますが、一方で、ご法語の『一紙小消息』の中で、「どんなに罪の重い者でも救ってくださる大慈悲を信じるからこそ、どんな些細な罪をも犯さないように心掛けなさい」とおっしゃっています。
その言葉を受け取り、ゆっくりとお念仏をおとなえください。阿弥陀さまに全てをおまかせする思いで…。

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