浄土宗新聞

連載 仏教と動物  第16回 蟹にまつわるお話

イラスト 木谷佳子

イラスト 木谷佳子

お釈迦さまの前世における物語『ジャータカ』をはじめ多くの仏教典籍(仏典)には、牛や象などの動物から、鳥や昆虫、さらには空想上のものまで、さまざまな生き物のエピソードが記されています。この連載では『仏教と動物』と題して仏教における動物観や動物に託された教えについて紹介いたします。
第16回目は、縁起の良いとされる動物「蟹」を取りあげます

信仰と結びついた動物

蟹は、熱帯から極地まで、世界中の海に様々な種類が生息し、その数は世界では約5千種、日本には約千種と言われています。大きさはわずか数ミリのものから、脚の両端間が3メートルを超すタカアシガニまで様々。

ところで、日本には昔話「猿蟹合戦」があるように、蟹は世界中の民話に登場します。

東南アジアでは、大地の神話に登場し、蟹が大地や海水を支配する観念があります。そのほか、アイヌには、蟹はお産の神であるという信仰があるなど、様々な神話や信仰に結びついている動物です。

今回は、『ジャータカ』にある、蟹にまつわるお話です。

大ガニのはさみ

昔、ヒマラヤの大きな湖に、体中が黄金色で、畳十畳ほどもある大きなカニが住んでいました。湖に水を飲みに来る象を捕まえては食べていたので、象の群れは怖がって、湖のほとりに下りてこようとしませんでした。

その頃、象の群れの王さまに1頭の子象が生まれました。その母親は、子象が大ガニに襲われないように、湖から遠く離れた田舎で子象を育てました。

子象は、母親の深い愛情に包まれ、やがて立派に成長し、濃い紫色の体をした、見るからにたくましい象になりました。

若者の象はやがて結婚し、ある時彼は、妻を連れて、父親象の所へやって来て、「お父さん、私はあの憎い大ガニを捕まえようと思います」と言いました。

「それは無茶だ。今まで、あいつに勝った者はだれもいないのだから」

そう言って、父親象は引き止めましたが、若者象の決心は固く、再三再四行くと言うので、父親象は、「それほどまでに言うのなら、やってみなさい」と、しぶしぶ頷きながら言いました。

若者象は大ガニの湖の近くに住むすべての象を集めると、みんなを連れ立って湖のある所まで行き、たずねました。

「大ガニが私たちを捕まえるのは、湖に下りる時か、それとも水を飲んでいる時か、または岸へ上がる時だろうか」

「あの大ガニが我々をねらうのは、いつも岸へ上がる時です」

大ガニの襲い方が分かった若者象は、みんなに命令しました。

「それでは、湖に下りて、水を飲んでから上がり、大ガニをおびき寄せよう」

象たちは命令どおりに動きました。

計画どおりに最後に岸へ上がった若者象の足を、あたかも鍛冶屋が大きな鋏で金属棒をつかむように、カニのはさみでしっかりと掴みました。若者象の妻は夫を見捨てることなく、そばに立っていました。

大ガニは、すごい力で若者象を湖の中へ引きずり込もうとしました。若者象は苦痛で顔をゆがめ、妻はただハラハラしながら見つめているだけでした。
 
象の群れは、震えながら悲鳴を上げて、森の方へと一目散に逃げていきました。妻もじりじりと後ずさりしました。それを見た若者象は、うたを唱えて妻に告げました。

「突き出た目の玉・堅い皮膚、鋭いはさみは血にまみれ、水に住みつくお化けガニ、この怪獣に今敗れ、動けぬ足も口惜しく、我が惨めさを嘆くのみ、ああ最愛の我が妻よ、私を捨ててはなりません、心の支えの我が妻よ」

これを聞いて、妻は引き返してくると、夫を慰めながらうたを唱えました。

「愛する人よ我が夫、どうしてあなたを捨てられよう、この地の極みに至るまで、我が最愛の良き人を」

夫を勇気づけた妻は、今度は大ガニに向かって、懇願するようにうたを唱えました。

「ナンマダー河やガンジスで、それらの至る大海で、あなたに勝る者はいない、勇者よさとれ、我が嘆き、私の夫を放したまえ」

大ガニは自分をほめる女の声にうれしくなりました。それに、必死になって夫を思う女が少しかわいそうになりました。その時、若者象の足を挟んでいたはさみがわずかに緩みました。

その瞬間、若者象は素早く前足を上げると、思いっきり大ガニの背中を踏みつけると、大ガニの背中の骨は、メリメリと音を立てて割れていきました。

若者象の喜びのいななきを聞いて、森に逃げていた象たちが集まってきました。象たちは、代わる代わる大ガニを踏みつけ、粉々にしてしまいました。

良き妻の美徳を称える

お釈迦さまは王子として生まれる前、さまざまな生き物として生まれ変わり、善行を積んだ結果、ブッダ(覚者)となりました。

このお話は、お釈迦さまがインドの祇園精舎に滞在している時に、盗賊に捕まり殺されそうになった夫を言葉で解放させ命を救った、ある在俗信者の妻について語られたものです。

登場する若者象は、お釈迦さま、若者象の妻は、この在俗信者の妻の前世の姿です。

平和を脅かす大ガニを退治しに出かけた勇敢な象が、彼を思う妻の励ましと智慧により救われ、見事、大ガニ退治に成功しました。

良き妻の美徳を称えるとともに、夫婦愛や智慧、勇猛心を表しています。


【コラム】蟹は縁起物

蟹満寺の寺号 Ⓒ土間拳 / PIXTA(ピクスタ)
蟹満寺の寺号 Ⓒ土間拳 / PIXTA(ピクスタ)

蟹は古来縁起の良い動物とされてきました。諸説ありますが、その理由は個性的な見た目と習性に由来するものとされています。
蟹が持つ最大の特徴と言えば“はさみ”ですが、このはさみを上下に動かす様子から幸運を招くとされ、また、泡を吹く様子からお金が湧いてくると伝えられてきました。
なお、蟹は卵から孵ふ化した後、脱皮を繰り返して大きく成長します。こうした生態を見た先人たちは、蟹に霊性を感じ特別な動物として考えてきました。転じて、私たちも日々新たな目標達成に向けた努力を続けることから、この蟹の生態になぞらえて信仰心を寄せることとなりました。
『今昔物語集』に記された「蟹の恩返し」という説話がお寺の起源とされている京都府木津川市山城町にある蟹満寺(真言宗智山派)では、蟹は厄除けとして祀られています。お寺にある常香炉や石碑などには蟹のデザインが施され、現在も良運の象徴として多くの人に親しまれています。