心ゆくまで味わう 法然さまの『選択集』 第5回
浄土宗で〝第一の聖典〟と位置づけられる書物『選択本願念仏集』(『選択集』)。「極楽往生を遂げるためには、何より〝南無阿弥陀仏〟とお念仏をとなえること」とする浄土宗の教えを、宗祖法然上人(1133ー1212)が微に入り細に入り説き示された「念仏指南の書」ともいえるものです。大正大学教授・林田康順先生に解説していただきます。
第1章
道綽禅師聖道浄土の二門を立てて、しかも聖道を捨てて正しく浄土に帰するの文④
||味わいかた
このコーナーでは、『選択集』の現代語訳と林田先生による解説を掲載しています。
現代語訳部分は、篇目(章題)、引文(内容の根拠となる文章の提示)、私釈(引文に対する法然上人の解釈)で構成されています。
【前回の復習】
前回は、法然上人が、極楽浄土への往生を目指す以上、すべての経論の中から、阿弥陀仏を主人公とする『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』と『往生論』(三経一論)を選び取り、教えの中心に据えるべきだとされ、この三種の経典を「浄土三部経」と呼称されたことを紹介しました。今回は〈三部経〉という呼び方の前例についての、法然上人による問答から始まります。
【私釈】
〈質問します〉「○○の三部経」という呼称には、前例がありますか。
〈お答えします〉前例は一つにとどまりません。たとえば、
①「法華の三部経」(『無量義経』『法華経』『普賢観経』)
②「大日の三部経」(『大日経』『金剛頂経』『蘇悉地経』)
③「鎮護国家の三部経」(『法華経』『仁王経』『金光明経』)
④「弥勒の三部経」(『弥勒上生経』『弥勒下生経』『弥勒成仏経』)などです。
今、唯一ここで取り上げるのは、阿弥陀仏による衆生救済の教えを中心に説く三つの経典であり、そのゆえに「浄土三部経」と名づけるのです。これらは、浄土宗がまさしく拠りどころとする経典なのです。
【解説】
ここで法然上人は、〈三部経〉と呼ばれる4種の例を提示し、ご自身が命名された「浄土三部経」という呼称が、先例に則ったものであることを明らかにされます。
【私釈】
次に、極楽浄土の教えを付属的に説くものをあげましょう。たとえば、極楽浄土へ往生するための種々の行を説く『華厳経』『法華経』『随求陀羅尼経』『尊勝陀羅尼経』等の経典や、『大乗起信論』『究竟一乗宝性論』『十住毘婆沙論』『摂大乗論』等の注釈書がこれにあたります。
【解説】
たとえば『随求陀羅尼経』には、「死して必ず極楽世界に生ず」とあり、『大乗起信論』には「専ら西方極楽世界の阿弥陀仏を念ず」とあるように、ここで法然上人があげられた経論には、阿弥陀仏や極楽浄土についての言及が見られます。しかし、いずれの経論にもそれぞれ別の主題があり、こうした言及は副次的なものに過ぎないのです。
【私釈】
そもそも、前に引用した道綽禅師の『安楽集』において、仏教のすべての教えを聖道門と浄土門に分けられていたのは、私たちに聖道門の教えを捨てさせ、浄土門の教えに帰入させるためでした。これについては二つの理由が示されていました。一つ目は釈尊が入滅されてから遙かな時が過ぎ去ってしまい、時代が混沌としているから、二つ目は聖道門の教えは実に奥深いものであるけれども、私たちの理解力はそれに遠く及ばぬ取るに足らない小さな器に過ぎないから、というものです。
浄土宗の中でこうした二門を立てられたのは、道綽禅師お一人ではありません。曇鸞大師・天台大師・迦才禅師・慈恩大師等の諸師の著作にも、同様の教えが説かれています。
【解説】
法然上人は、聖道門の教えを捨て、浄土門の教えに帰入させる理由として、その教えが行われる時(時)と行う者(機)に注目し、前者はその二つが乖離しているのに対し、後者は相応していると捉えたのです。浄土宗では、この時機相応という考え方をとても大切にしています。
【私釈】
ここで、曇鸞大師が書かれた『往生論註』の一節を紹介しましょう。
「謹んで思いを巡らせてみれば、龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』〈易行品〉には、およそ次のようなことが述べられている。菩薩が決して修行の退転しない境地(阿毘跋致)を求めるにあたっては、二つの道がある。一つには難行道であり、二つには易行道である。〈五つの濁り〉が蔓延し、しかも仏がおられないこの時代に、自身の力(自力)だけを頼りにその境地を求めることを難行道という。それを難行道と名付けるには多くの道理がある。さしあたり5点を示して、その理由を説き明かそう。第1には、仏教以外の教えを奉ずる人々による、善行と見まがう振る舞いが菩薩の修行を乱してしまうから。第2には、小乗仏教の行者による、自己のさとりのみを目指す利己的な振る舞いが、広く人々を救おうとする修行の障りとなってしまうから。第3には、自己を省みない悪人が、他者の修めた勝れた善根功徳を非難するから。第4には、自己の欲望や名誉の思いに基づいてなされた善行が、清浄であるはずの行を汚してしまうから。第5には、ただ自身の力(自力)を頼りとして修める行なので、仏の大いなる力(他力)による支えがないから。これらは実際に広く目に触れることばかりであろう。たとえるならば難行道とは、はるかな陸路を徒歩で進んでいくことが苦難に満ちているようなものである。
【解説】
ここで曇鸞大師は、難行道と名付ける理由を5点明示しますが、その第5番目に「ただ自力を頼りとして修める行なので、他力による支えがない」ことをあげられます。それに対し、阿弥陀仏の救いの働き(他力)に重きを置く教えこそ易行道であり、浄土門に他なりません。次回は、この易行道についての説示へと続きます。
||コラム
九条兼実と『玉葉』
Q&A 教えて林田先生
『十住毘婆沙論』にある〈五つの濁り〉とは、どんなものですか?
時代が下るにつれて起こる、世の中の五つの濁りや汚れで〈五濁〉といい、『阿弥陀経』に説かれています。①劫濁(時代そのものが悪くなり、飢饉・疫病・戦争などが起こる)、②見濁(邪悪な考え方がはびこる)、③煩悩濁(煩悩が盛んにわき起こる)、④衆生濁(人間の心身能力が低下し善が行われなくなる)、⑤命濁(人間の寿命が短くなる)の五つがこれあたります。
- 林田 康順(はやしだ こうじゅん)
- 大正大学仏教学部教授
- 慶岸寺(神奈川県)住職
- 法然浄土教、浄土宗学が専門。『浄土宗の常識』(共著、朱鷺書房)、『法然と極楽浄土』(青春新書)ほか、著書・論文など多数。
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心ゆくまで味わう 法然さまの『選択集』 第4回
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