浄土宗新聞

私たちの心にも鬼の姿が 施餓鬼会

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多くの参列者が見守る中、厳かに営まれる施餓鬼会

施餓鬼会は、文字通り「餓鬼」に食物や飲み物を「施す」仏事であり、お盆の時期に合わせて営まれることの多い日本の伝統行事の一つです。
 餓鬼とは、喉が針の穴のように細く、お腹だけが膨れ上がった鬼のような姿だと言われています。目の前に食べ物や水があっても、口にしようとした瞬間に炎となって燃え尽きてしまい、決して満たされることがありません。一見すると、私たちと縁遠い架空の存在のようにも思えますが、その姿は決して私たちと無縁のものではありません。
 お経には、生前に飽くなき貪りの心にとらわれた人は、死後に餓鬼に生まれ変わることがあると説かれています。どれほど求めても満たされない飢えと渇き。その苦しみは、生前の執着の報いとして現れるとされるのです。
 餓鬼にまつわる歌として、次のような古歌があります。

人皆の 心の底の 奥の院
 たずねてみれば 鬼が本尊

私たちの心の奥底には、貪りや執着の心が潜んでおり、その心は時に姿を現します。例えば、かつて社会を騒がせた、お米の買い占めや、災害や不安が広がったときに起きた、トイレットペーパーの独占。もちろん、これらはいずれも、私たちが生きていく上でなくてはならない必需品です。家族を守るために、生活を維持するために「確保したい」と思うのは自然な心理かもしれません。しかし、それが度を越して「自分さえ良ければいい」「他人の分がなくなっても、わが家だけは安心でありたい」という思いに変わったとき、仏さまの眼から見た私たちは、すでに鬼の姿に映っているのかもしれません。
 法然上人は「人間は全員、凡夫である」と捉え、自分の力でどれだけ修行を積んでも欲望や怒りを完全に消し去ることはできないと人間のあり方を見定められました。だからこそ、「自分だけが」という執着を手放し、「他者と共に生かされている」という「おかげさま」の心を持つこと。目の前にあるものを独占するのではなく、ほんの少しずつでも、お互いに分かち合うこと。その心を養うところに施餓鬼会の一つの意味があると言えるでしょう。
 もっとも、自らの力だけで欲望を断ち切ることのできないのが私たち凡夫です。しかし、阿弥陀さまは私たちの心に潜む鬼を見通した上で「そのまま来たれ」と手を差し伸べてくださいます。お寺にお越しの際には、阿弥陀さまの御尊顔を仰ぎながら、自らの心を省み、心を込めてお念仏をおとなえいたしましょう。