心ゆくまで味わう 法然さまの『選択集』 第14回
浄土宗で〝第一の聖典〟と位置づけられる書物『選択本願念仏集』(『選択集』)。「極楽往生を遂げるためには、何より〝南無阿弥陀仏〟とお念仏をとなえること」とする浄土宗の教えを、宗祖法然上人(1133ー1212)が微に入り細に入り説き示された「念仏指南の書」ともいえるものです。大正大学教授・林田康順先生に解説していただきます。
第2章
善導和尚正雑二行を立てて、しかも雑行を捨てて正行に帰するの文
⑦
||味わい方
このコーナーでは、『選択集』の現代語訳と林田先生による解説を掲載しています。
現代語訳部分は、篇目(章題)、引文(内容の根拠となる文章の提示)、私釈(引文に対する法然上人の解釈)で構成されています。
【前回】
これまで法然上人は、善導大師の説き示された内容にもとづき、お念仏を中心とする〈正行〉とそれ以外の行である〈雑行〉の分類、その利益と不利益について五つの相対を示されました。今号は同様の分類をされたのが善導大師だけではないことを明らかにされます。
【私釈】
浄土へ往生するための行を〈正行と雑行〉のように2種類に分けているのは、ひとり善導大師だけではありません。
善導大師と同じく浄土教を中国にひろめられた5人の祖師(浄土五祖)のひとり、道綽禅師の著書『安楽集』には、「浄土に往生するための行をまとめると、念仏とその他の多くの行(万行)の2種類になる」とあります。同じく浄土五祖の懐感禅師が書かれた『釈浄土群疑論』にも、「念仏とその他のもろもろの行(諸行)の2種類に分けることができる」とあります。〔日本浄土教の基礎を確立した恵心僧都源信もその著書『往生要集』を通じて、懐感禅師の分類を継承されています。〕
これら善導・道綽・懐感という3人の高僧が浄土往生の行を、念仏とその他の行に分類してまとめられたのは、極めて適切に教えを理解されていたからです。その他の祖師方はそうではありません。浄土往生を目指す者はこうしたことをよく知らねばなりません。
【解説】
法然上人は、お念仏と他の行を分類する例として、善導大師の師匠である道綽禅師、弟子である懐感禅師の説かれた内容を紹介されます。さらに、後世、日本の源信もその分類を継承されていることを指摘されました。こうして上人は、『選択集』でこれまで段取りを踏みながら進めてきた、すべての仏教の教えからお念仏一行にたどり着く流れが、決して独り善がりの理解ではないことを明らかにされます。
続けて法然上人は、善導大師が浄土往生のための具体的実践などをまとめた『往生礼讃』を引用、もっぱらお念仏を修める〈専修〉と種々雑多な行を修める〈雑修〉がもたらす利益と不利益について示されます。
【引文】
善導大師は『往生礼讃』のなかで、次のように述べられています。
「これまで述べてきたことを正しく受けとめ、一回一回、命尽きるまで生涯念仏をとなえ続ける者は、10人いれば10人すべてが往生し、100人いれば100人すべてが往生する。その理由として次の4点がある。
①浄土往生以外のさまざまな縁に影響されないので、自然に阿弥陀仏や極楽浄土に向けた正しい心持ちになるから。
②阿弥陀仏の誓われたことと一致した行いであるから。
③釈尊の教えに違わないから。
④すべての仏による「必ず浄土往生がかなう」との証明にしたがっているから。
一方、もっぱら念仏をとなえることをやめて、種々雑多な行を修めようとする者は、100人いても、わずかひとりかふたりの往生がかなうに留まり、千人いてもわずか3人から5人しか往生を遂げられない。これには、13の理由がある。
❶浄土往生以外のさまざまな縁によって心が散乱し、阿弥陀仏や極楽浄土に向けた正しい心持ちになれないから。
❷阿弥陀仏の誓われたことと一致した行いでないから。
❸釈尊の教えに違うから。
❹すべての仏による「必ず浄土往生がかなう」との証明にしたがっていないから。
❺阿弥陀仏に対する思いが継続しないから。
❻阿弥陀仏を思い続ける気持ちが途切れがちになるから。
❼阿弥陀仏に対する思いや浄土往生を願う思いに真心がこもらなくなるから。
❽貪りやいかりの心、誤ったものの見方など、さまざまな煩悩が湧き起こり、阿弥陀仏に寄せる心が途切れがちになるから。
❾犯した罪を懺悔する心が湧き起こらないから。
❿阿弥陀仏の恩に報い、感謝する思いを保ち続けられないから。
⓫他者を軽んじ、おごり高ぶる心が生じるので、たとえ行を修めたとしても、つねに名誉や利益を望む心が起こってしまうから。
⓬自己にとらわれる思いが生じてしまい、共に行を修める者と親しく交わることができないから。
⓭自ら好んで念仏以外の種々雑多な縁に近づいてしまうので、自分だけでなく、他の人も往生の行から遠ざけてしまうから。
【解説】
善導大師は、もっぱらお念仏を修める〈専修〉の者は100パーセント浄土往生が約束されるのに対し、種々雑多な行を修める〈雑修〉の者は、わずか数パーセント、否1パーセント以下の確率に留まると明言されます。その理由として、〈専修〉に4点、〈雑修〉に13点を挙げていることから、この部分を「四得十三失」、「十三得失」と呼んでいます。
法然上人の伝記には、善導大師のこの言葉との出会いについて記されています。
比叡山で迷いの世界を脱する道を求め、修行に励んでいた上人は、『往生要集』を通じ浄土教に心ひかれていきます。この書物で浄土往生の確証として引用されていたのが、『往生礼讃』の「十即十生、百即百生」という善導大師のお言葉でした。法然上人は「必ず往生できる」という断言の理由を確かめようと、善導大師の著作に何度も目を通されるようになります。
上人は、「四得十三失」の中、②③④にあるように、阿弥陀仏・釈尊・すべての仏がお念仏を選ばれたことについて3章以降、さらに詳細に述べられます。
次回は、『往生礼讃』の引用の続き、そして2章の結論です。
- 林田 康順(はやしだ こうじゅん)
- 大正大学仏教学部教授
- 慶岸寺(神奈川県)住職
- 法然浄土教、浄土宗学が専門。『浄土宗の常識』(共著、朱鷺書房)、『法然と極楽浄土』(青春新書)ほか、著書・論文など多数。