浄土宗新聞

心ゆくまで味わう 法然さまの『選択集』 第42回

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浄土宗で〝第一の聖典〟と位置づけられる書物『選択本願念仏集』(『選択集』)を大正大学教授・林田康順先生が解説。

第8章 念仏の行者必ず三心を具足すべきの文③

深心とは深く信じる心―信機・信法―

【現代語訳】

引文

(※善導大師『観無量寿経疏』引用の続き)
『観無量寿経』において「第二に深心」と説かれる「深心」とは、「深く信じる心」のことである。深く信じる対象には、二つの側面がある。
 第一は、今、現実存在としての自分自身はまぎれもなく罪悪を積み重ねてきた凡夫であり、はるかな過去世から今生に至るまで常に迷いの世界に埋没し、生まれ変わり死に変わりを常に繰り返して、そうした境涯から離れ出る縁などまったくないことをわずかな疑いもなく深く信じるという側面である。
 第二の側面には、さらに次の3種がある。
①『無量寿経』において阿弥陀仏が48の誓願を完成され、その働きを通じて念仏をとなえたすべての命あるもの(衆生)を救い摂られることを疑うことやためらうことなく、その本願のお力に乗じて、必ず浄土往生がかなうことを間違いないと深く信じること。
②『観無量寿経』において釈尊が、浄土往生を願う者が広く修めるべき3種の行(三福)や往生を願う者の資質や能力、往生の様相を分けた九つの階位(九品)、あるいは、静めた心で阿弥陀仏のお姿や極楽浄土の荘厳を観察する善行(定善)や散り乱れる心のままでも修められる種々の善行(散善)を説かれ、それによって阿弥陀仏をはじめとする極楽の聖者(正報)や極楽の妙なる荘厳(依報)が真実であることを明らかにし、それらを褒め讃えることによって、人々に浄土を欣い求め、阿弥陀仏を慕わせようとされていることは間違いないと深く信じること。
③『阿弥陀経』において、あらゆる世界にましますガンジス河の砂の数ほど多くの諸仏が、念仏をとなえたすべての凡夫の浄土往生が必ずかなうことを真実であると証明して(証誠)、浄土往生を勧められていることを間違いないと深く信じること。
また「深く信じる」ことについて、すべての浄土往生を願う行者を仰ぎつつ、彼らに願うところは、心を一つにして、ただひたすら仏のお言葉を信じ、全身全霊を込めて、次の3点をかならず実践していただくことである。
①仏が選び捨てられた修め難い行やさとり難い教えを即座に打ち捨てること。
②仏が選び行じさせようとした念仏一行をただちに修め行じること。
③仏が選び退去させようとした迷いの世界をすぐさま退去して、浄土への道に歩みを進めること。
このように信じ、行じる者こそ、釈尊の教えを心から信じて素直に順い、諸仏の証誠を心から信じて素直に順い、阿弥陀仏の本願を心から信じて素直に順っている姿であり、「真実の仏弟子」と名付けられるのである。
 そして、すべての行者が、この『観無量寿経』を契機として、広く「浄土三部経(『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』)」を通じて阿弥陀仏・釈尊・諸仏が説かれた教えを深く信じて、仏が選び定めた念仏一行を修めるならば、衆生が道を誤ることなど決してない。何故なら、あらゆる仏はすべての衆生を救おうという大いなる慈悲を完全に体得されたお方であり、いずれの仏も真実の言葉を発せられるお方だからである。
(※『観無量寿経疏』の引用続く)

【林田先生の解説】

 第8章は、念仏者の心構えである、①まことの心(至誠心)、②深く信じる心(深心)、③善根の功徳を浄土に回向して往生を願う心(回向発願心)の三心が内容の中心となっています。
 今号からは『観無量寿経疏』に説き示される〈深心〉の内容です。法然上人は、「三心は分かれているとはいえ、その肝要を選び取るとすれば深心に集約することができます」(『三部経大意』)とされ、三心の中、特に深心を重視しておられます。というのも、私たちが信じるべきことを詳細に明らかにしているのが、他ならぬ深心だからです。善導大師は、そのことについて、次の二つの側面を提示されました。
 第一は「この私は、迷いの世界を巡り続け、自身の力ではその境涯から離れ出る縁などまったくない存在であることを深く信じる」という側面で、〈信機〉といいます。私たちはだれしも、さとりを開き仏となる可能性(仏性)を具えた存在。しかし大師は、さとりとはほど遠い状況で、苦しみの世界をさ迷い続けるという私たち一人ひとりのありのままの姿(実存)から決して目を背けず、見つめられたのです。
 第二は「『浄土三部経』において阿弥陀仏・釈尊・諸仏が同じく念仏一行による浄土往生を勧めていることを深く信じる」という側面で、〈信法〉といいます。法然上人はこの記述を受けて、「深心とは、お念仏の教えを深く信じる心です。お念仏の教えを深く信じるとは、他の行をあえて修めることなく、ただひたすらお念仏をとなえるようになることです。もし他の行も兼ねて修めなければならないと受けとめているならば深心が欠けている行者となります。要するに『浄土三部経』はひとえに念仏一行を説いていると心得て(中略)、一心にお念仏をとなえている姿を、深心が具わっている行者というのです」(『念仏大意』)と丁寧に説き示されています。
 またこれら信機・信法をめぐって上人は、「はじめにわが身のほどを信じて(信機)、後に阿弥陀仏の本願を信じる(信法)のです。つまり、阿弥陀仏の本願がしっかり信じられるようになるため、わが身のほどを信じるべきことを先にあげているのです」(『御消息』)と〈信機から信法へ〉という流れをお示しです。なるほど、私たち自身が凡夫の自覚を確立できてこそ、阿弥陀仏による救いの働きを心の底から希求できるようになるといえるのです。
 善導大師は、「仏が選び捨てられた修め難い行を私たちは打ち捨て、仏が選び行じさせようとした念仏一行を私たちは修めるべきである」と、浄土へ往生するための修行の取捨が仏によって施されていることを示されました。そして、阿弥陀仏・釈尊・諸仏という三仏と『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』という三経を心から信じて素直に順う、「真実の仏弟子」となることを強く訴えられたのです。
 こうした仏による往生のための修行の取捨という一連の内容を契機として法然上人は、第3章で示された選択本願念仏思想を創唱され、広くは『選択集』全体を貫く「浄土三部経」に基づいた三仏による選択思想を整理・構築されることとなるのです。
 次回も善導大師による深心の解説が続きます。

  • 林田 康順(はやしだ こうじゅん)
  • 大正大学仏教学部教授
  • 慶岸寺(神奈川県)住職
  • 法然浄土教、浄土宗学が専門。『浄土宗の常識』(共著、朱鷺書房)、『法然と極楽浄土』(青春新書)ほか、著書・論文など多数。