心ゆくまで味わう 法然さまの『選択集』 第43回
浄土宗で〝第一の聖典〟と位置づけられる書物『選択本願念仏集』(『選択集』)を大正大学教授・林田康順先生が解説。
第8章 念仏の行者必ず三心を具足すべきの文④
〈真の仏弟子〉とは―念仏別時意説への反論―
引文
(※善導大師『観無量寿経疏』引用の続き)
一方、さとりの境地に至っていない菩薩たちは、いまだその智慧や多くの行を完全に成し遂げてはいない。今なお学びの途上にあって、煩悩そのもの〈正使〉や煩悩を断じた後に残る余勢〈習気〉という2種の障害を完全には除滅できておらず、(阿弥陀仏のように)自身で立てた誓願を完全に完成し、仏になってはいない。
ある程度の修行が進んだ菩薩〈内凡・三賢〉や高度に修行が進んだ菩薩〈十聖〉は、諸々の仏が説き示された教えの意図を推し量ることができるが、その理解が正しいか否かを最終的に判断することはできない。仏による教えの意味内容を正しく受けとめられたとしても、かならず仏による証明を請い願った上で確定しなければならないのである。
もし菩薩の説く内容が仏の御心に沿えば、仏はただちに菩薩が教えを体得したことを許可・承認〈印可〉して、「その通り、それでよろしい」と述べられる。そうでなければ、速やかに「あなたたちが説く教えの理解は正しくない」と示される。仏によって印可されない菩薩の言葉は、仏の証明がない無意味な言葉〈無記〉や利益をもたらさない言葉〈無利・無益〉と同じ扱いとなる。一方で仏によって印可された菩薩の言葉は、仏が示された正しい教えを心から信じて素直に順った言葉に他ならない。
仏のすべてのお言葉は、まぎれもなく正しい教え〈正教〉であり、正しい意義〈正義〉を持ち、正しい修行〈正行〉となり、正しい解釈〈正解〉であり、正しい働き〈正業〉となり、正しい智慧〈正智〉をもたらす。したがって、言葉の多少にかかわらず、内容が正しいか誤りかの判断を、菩薩をはじめとする人道や天道などに住む者たちに尋ねる必要などまったくない。すなわち、仏が説くところは完全円満な教え〈了教〉、菩薩などが(仏の印可を得ず勝手に)説くところはことごとく不完全な教え〈不了教〉と名付けられる。以上のことをまさに知らなければならない。
こうしたことから、まさに今の世において、縁を結んだすべての浄土往生を目指す人々を敬い仰ぎつつ、ただひたすら仏のお言葉を深く信じて、仏の説かれた念仏を一心にとなえるべきことを勧めるのである。いまださとりを開いていない菩薩が説いている、仏のお言葉とまったく一致しない誤った教えを信用して、疑いの心やとらわれの心をおこし、それによって煩悩に惑わされて自ら迷いの道に入り込んでしまった結果、浄土往生というこの上ない広大な利益を廃し失うようなことが決してあってはならない。
また、さきほど述べた「深心とは、深く信じること」とは、自分自身の心を決して揺らぐことのないように強固に確立して、仏の教えに順って念仏をとなえて、その教えを疑う心や錯った理解を永遠に取り除くように深く信じることである。
そして、私たちの受けとめ方とは別の解釈を施す者〈別解〉や別の行を修める者〈別行〉、異なる学問を進める者〈異学〉、異なる見解を抱く者〈異見〉、こうした学問や見解に固執している者〈異執〉からの非難によって、浄土往生を目指す心が後もどりしたり、失われたり、動揺したりしないように深く信じることである。
(※『観無量寿経疏』の引用続く)
【林田先生の解説】
今回も善導大師『観無量寿経疏(観経疏)』に説かれる深心(深く信じる心)の解釈についてです。
前回は、私たちが深く信じるべきことの内容について、
①信機…この私は、迷いの世界を巡り続け、自身の力ではその境涯から離れ出る縁などまったくない存在であると信じる。
②信法…「浄土三部経」において阿弥陀仏・釈迦仏・諸仏が心を一つにして念仏一行による浄土往生を勧めていることを疑いなく信じる。
という二つの側面が提示されました。そのなか、信法において大師は、三仏(阿弥陀仏・釈迦仏・諸仏)と「浄土三部経」という仏説を心から信じて素直に順う「真の仏弟子」となるべきことを訴えられました。
一方、今号では、まださとりに至っていない菩薩の説示に不用意に従うべきではないことが重ねて指摘され、仏と菩薩が対比的に描かれます。
なぜ大師は、両者の峻別を強く訴えられたのでしょうか。それは、隋代から善導大師の生きた唐代にかけて、「念仏別時意説」という主張が強い影響力を及ぼしていたからです。これは、お念仏による浄土往生は、臨終の後すぐに次の生(順次)にかなえられるのではなく、何度も輪廻を繰り返した遠い将来(別時)にかなえられるという、念仏往生に対する論難のこと。
これは、インドで唯識思想を大成した無著の『摂大乗論』と弟・世親の『摂大乗論釈』に説かれる〈四意趣〉のなか、「別時意趣」に基づいた考え方です。四意趣とは、仏や菩薩がさまざまな人々を仏道に導くために施す4種類の巧みな教説のこと。別時意趣はこのなか、怠惰な人々に対して、方便として一つの行を提示して仏道実践から退かないよう促し、最終的には長い修行をへて、さとりを開くことができるように導くというもの。その具体例として、仏の名号をとなえてさとりを開くことや私たちの願いのみで浄土往生を遂げることがあげられています。
この考えに基づき、しきりに念仏別時意説が叫ばれ、善導大師の教えを受けた懐感禅師が、「『摂大乗論』が翻訳されて百余年、本書を読んだ人々が西方浄土を目指す行を修めなくなってしまった」と嘆くほど広まったのです。
善導大師は、念仏別時意説に対してさまざまな反論をされます。その一例が『選択集』第2章段で引用された「お念仏には、さとりを目指す人にとって不可欠な〈願〉と〈行〉が共に具わっているため、すぐに往生がかなう」という『観経疏』の一節。そして、念仏別時意説に対する根本的な反論が、ここで展開される仏と菩薩の対比に他なりません。インドの高僧を中国では菩薩と呼んでおり、大師がいう菩薩は無著と世親を意図していると考えられます。すなわち、お念仏の教えは、三仏と「浄土三部経」という仏説に基づく完全円満な教え(了教)であるのに対し、念仏別時意説は、無著・世親という菩薩と『摂大乗論』『摂大乗論釈』という論釈による不完全な教え(不了教)であるという指摘です。
善導大師は、仏説であるお念仏の教えを深く信じるべきで、それと矛盾する説示によって正しい念仏信仰が退かないようにと強く訴えられたのです。

- 林田 康順(はやしだ こうじゅん)
- 大正大学仏教学部教授
- 慶岸寺(神奈川県)住職
- 法然浄土教、浄土宗学が専門。『浄土宗の常識』(共著、朱鷺書房)、『法然と極楽浄土』(青春新書)ほか、著書・論文など多数。