浄土宗新聞

心ゆくまで味わう 法然さまの『選択集』 第46回

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浄土宗で〝第一の聖典〟と位置づけられる書物『選択本願念仏集』(『選択集』)を大正大学教授・林田康順先生が解説。

第8章 念仏の行者必ず三心を具足すべきの文⑦

異なった理解の人々への対応―四重の破人③―

【現代語訳】

引文

(※善導大師『観無量寿経疏』引用の続き)
また、浄土往生を目指してお念仏をとなえる者は、次に示す事柄をしっかり理解して、お念仏の教えを非難する者に対して説き伝えなさい。
 『たとえ、人々の能力や状況に応じてさまざまな姿で現れ出た仏(化仏)や、行を修めて誓願を完成した仏(報仏)が、かりに一人、または大勢で、あるいは、あらゆる世界に遍満するほど無数に現れたとする。その一人ひとりが、それぞれ光明を放って周囲を輝かせ、証明のために大きな舌を出して、あらゆる世界をすべてその舌で覆い、〈釈尊が、阿弥陀仏や極楽浄土を褒め讃え、すべての凡夫に浄土を勧め、往生を願う心を起こさせて、彼らが心を集中して念仏をとなえ、さまざまな善行を修め、それらを浄土に振り向けて往生を願い求めるならば、かならず往生がかなうと説き示している内容は、まったくもってうそ偽りに他ならず、決してあり得ない〉と言いふらしていることを耳にしたとしよう。
 そうであったとしても、私は、わずかでも念仏往生の教えに疑いの心を抱いたり、往生を願う気持ちが退いたり、お念仏では阿弥陀仏の極楽浄土に往生できないのではないかと畏れ怯んだりすることなどない。このように言えるのは、次の理由による。
 お一人の御仏も、すべての御仏も、①真実の法に対する正しい認識や見解(知見)、②真実の法を正しく理解した上での実践(解行)、③行を修めた結果、体得したさとりの境地(証悟)、④さとりを開いて到達した仏の位(果位)、⑤命あるすべての者の苦悩を救う大いなる慈悲(大悲)などのあらゆることがまったく同じであって、寸分の異なりもない。それ故、お一人の御仏が取り決め、制止されたことは、とりもなおさず、すべての御仏が同じように制止されている。
 前にお出ましになった御仏が、生き物の命を奪う「殺生」をはじめとする10種の悪事(十悪)などの罪を制止され、それらを決して犯さず行わなかった者を、「10種の善い行い(十善)を遵守し、その実践(十行)を修めた者」、あるいは「菩薩が修すべき6種の行(六度)を誠実に修めた者」と名付けられたとする。その後に御仏がお出ましになったとしても、前の御仏が取り決められた十善の教えを改めて、十悪を犯させようとすることは決してされるはずがない。
 こうした道理を通じて推し量ってみるならば、多くの御仏の説き示されたことやそれらの実践は、互いに相違しないことを知らねばならない。
 かりに釈尊お一人が、すべての凡夫に浄土往生の教えを指し示して勧め、「身命を賭して、ただひたすらお念仏を修めれば、命終の後、かならずや極楽浄土に往生がかなう」と述べられているならば、そのまま同じく、あらゆる世界にまします御仏も、皆ことごとく、同様に讃えられ、勧められ、証明されているのである。このように言えるのは、次の理由による。
 すべての御仏は、あらゆる者の苦悩をご自身の苦悩として受け止めて、平等に救うことを目指される大悲を共有しているからである。したがって、お一人の御仏による教化は、すべての御仏の教化に他ならず、すべての御仏による教化は、お一人の御仏の教化に他ならないのである。
(※『観無量寿経疏』の引用続く)

【林田先生の解説】

今回も、善導大師の『観無量寿経疏』に説き示される深心(深く信じる心)の解釈が続きます。
 前々回から、お念仏の教えを非難し、その信仰を退転させようとして私たちに言い寄ってくる4種の人々(四重の破人)が提示され、彼らに対する反論が大師によって丁寧に説き示されています。今回は、人々の能力や状況に応じてさまざまな姿で現れ出た仏(化仏)や、行を修めて誓願を完成した仏(報仏)が最後(四重)の破人として登場します。
 化仏や報仏は、お念仏の教えを非難する際に大きな舌を出して、あらゆる世界を覆うと示されます。これは、経典に広く描かれている、仏が具える特徴とその振る舞いを採用したものです。
 仏は、32の優れた身体的特徴(三十二相)を具えていて、その一つに顔全体を覆うほど大きな舌(大舌相、広長舌相)があるといわれます。経典に、その舌は、一人の仏が教化を担当する一〇億の世界(三千大千世界)を覆うほど広大であるとも説かれます。そして、この広大な舌を出し示すことで、自身の言葉にうそ偽りがなく、真実であることの証明とするのです。
 いずれにしても大師は、化仏や報仏が、そのような振る舞いを通じてお念仏の教えを非難したとしても、「念仏往生の教えに疑いを抱くことはない」と強く彼らに反論するようお示しです。
 その理由として大師は、さとりの境地など、すべての仏に共通する点を次々と列挙されたのち、仏が共通して制止される例として十悪を、勧奨される例として十善と六度を示されます。
 十悪とは、①殺生〈生き物の命を奪う〉、②偸盗〈他者の財物を盗む〉、③邪婬〈不適切な性交渉〉、④妄語〈うそ偽りの言葉〉、⑤両舌〈二枚舌〉、⑥悪口〈他者への悪口〉、⑦綺語〈うわべを飾った言葉〉、⑧貪欲〈貪りの心〉、⑨瞋恚〈瞋りの心〉、⑩邪見〈邪な心〉、といった、身(①~③)と口(④~⑦)と心(⑧~⑩)で犯す10種の悪行であり、地獄道・餓鬼道・畜生道など悪しき世界に堕ちる原因とされます。一方、これら十悪を犯さないように努め励むのが十善です。
 また六度とは、①布施〈施し〉、②持戒〈仏教の生活規範を守る〉、③忍辱〈堪え忍ぶ〉、④精進〈努め励む〉、⑤禅定〈心を静める〉、⑥智慧〈真理に目覚める〉、という菩薩が修めるべき6種の善行で、その実践によってさとりを開くことができるとされます。
 十悪を制止し、十善や六度を勧奨することは、広く悪い行いをとどめさせ、善い行いをさせるという廃悪修善の実践であり、仏であれば、それと異なることを口にされるはずはないと大師は指摘されるのです。
 続けて善導大師は、大いなる慈悲を共有し、平等救済の実現を目指す仏であれば、真実の世界である極楽浄土への往生をかなえるお念仏の教えを非難することなど決してあり得ないと強調されます。もちろん大師は、二重・三重の破人と同様、この四重の破人についても、その冒頭に「たとえ」という表現を用いており、化仏・報仏による非難は、どこまでも「仮定」の話であることを大前提としたものです。
 こうした説示を通じて大師は、私たちに揺るぎない信仰の確立をあらためて促しているのです。
 次回は、深心の結びへと進みます。

  • 林田 康順(はやしだ こうじゅん)
  • 大正大学仏教学部教授
  • 慶岸寺(神奈川県)住職
  • 法然浄土教、浄土宗学が専門。『浄土宗の常識』(共著、朱鷺書房)、『法然と極楽浄土』(青春新書)ほか、著書・論文など多数。