浄土宗新聞

【浄土宗の読む法話】「ありがたい」と「あたりまえ」

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あなたは「ありがとう」の反対語を知ってますか?

先日、こんな書き込み記事がありました。う~ん…と思いながら続きを見ると、『ありがとうの反対語など今まで考えたこともなかった。教えてもらった答えは…「あたりまえ」。「ありがとう」は漢字で書くと「有難う」「有難(ありがた)し」という意味だ。あることがむずかしい、まれである。めったにない事にめぐりあう。すなわち、奇跡ということだ。奇跡の反対は、「当然」とか「当たり前」。我々は毎日起こる出来事を、当たり前だと思って過ごしている。(中略) 毎朝目覚めるのが、あたりまえ。食事ができるのが、あたりまえ。息ができるのが、あたりまえ。友達といつも会えるのが、あたりまえ。太陽が毎朝昇るのが、あたりまえ。うまれてきたのが、あたりまえ。夫(妻)が毎日帰ってくるのが、あたりまえ。そして…生きているのが、あたりまえ。』と書かれていました。

読み終えて思い出したことがありました。
お父様とお母様の命日に必ずお参りされる方が、命日ではない日に訪ねて来たので、私が「何かありましたか?」と尋ねると、「今日は、父と母にあやまりに来ました。」と言うので「ええっ?」と声を出すと、「来週、白内障の手術を受けることになったので…」と。私は「手術を受けるのに何故あやまるのですか?」と伺いました。すると、両手を広げて仁王立ちになり、「だってそうでしょ。この身体のどれ一つも自分で作ったものは無くて、両親からいただいた身体でしょ。そのいただいた身体に傷をつけちゃうのだから、あやまります。」と言って本堂に上がると、「阿弥陀様、父母にごめんなさいと伝えてください。それから、私が死んだら必ず迎えに来てください、直接、話したいので…」と言って、お十念をお称えしてお墓へと向かいました。その後ろ姿は、「両親が生んでくれた、自分の身体に感謝しましょう!」と語っているように見えました。

お釈迦様は、「人の生を受くるはかたく やがて死すべきものの いま生命あるはありがたし 仏法を耳にするは難かたく 諸仏の世に出づるもありがたし」と説かれています。生きていることはあたりまえではなく、ありがたいことなのです。「死す」ことがあたりまえなのです。そして「死す」前に極楽浄土に往き生まれることができるお念仏のみ教えをいただき、阿弥陀様に会うことができることは、欲や瞋りや迷いを消すことのできない私たちにとって、奇跡といえるほどありがたいことなのです。そのみ教えを示してくださった法然上人は、「阿弥陀佛と 十声とこえとなえて まどろまん ながきねぶりに なりもこそすれ」(「ねぶり」とは「眠り」のこと)と詠まれ、翌朝は目が覚めないかもしれないと、命の終わりがいつきてもいいようにお十念をお称えされていたのです。私たちも「あたりまえ」と考えがちな「ありがたい」ことに気づき、感謝の気持ちを忘れず、「あたりまえ」である命の終わりが来た時に、阿弥陀様やたくさんの菩薩様、ご先祖様に迎えに来ていただけるようにお念仏をお称えする日暮らしをしていきましょう。

合掌

埼玉教区 第三組 法性寺 酒井宏典