浄土宗新聞

【お坊さんエッセイ】無条件の愛

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みなさんは、幼い頃に読んでもらった絵本の内容を、どれほど覚えているでしょうか。3歳になる姪にせがまれて絵本を読み聞かせながら、わたしは多くの物語のディティールをすっかり忘れていると気がつかされました。でも、大人になってあらためて丁寧に読むと、当時は理解できなかった物語のせつなさや、こめられた願いが伝わってきて、心を震わせられます。気がつけば、姪よりも夢中になって絵本を開いていることがあります。

大好きだった『泣いた赤鬼』の作者、浜田廣介さんの他の著作が気になって集めたのも、そんな経緯からでした。そして、物語の内容は覚えているのに、何度も読んでしまうのは、廣介作品に登場する者たちが行為で示そうとする、わけへだてのない愛情や慈しみに心が温かくなるのを感じるからなのでしょう。

廣介作品のなかで、とりわけ心をひかれた物語がありました。それは『よぶこどり』です。一匹のリスが、畑で拾った卵を温めて一羽のひな鳥をかえします。リスはひな鳥を「カッコウ」と名づけ、エサを探し与え、子守唄を聞かせ、毎日かわいがりました。

ひな鳥は、自分を愛してくれるリスを本物の母に違いないと思おうとするのですが、やがて身体の違いに気がつきます。そして、自分と同じ姿の空飛ぶ鳥を見て、そちらが本当の母なのだと思って羽ばたいて行ってしまうのです。残されたリスはカッコウを何年も待ち続けます。帰らぬカッコウを自分も鳥になって探したいと願ったリスは……という、なんとも切ないお話です。

本当の親子なのかと疑いながらも、リスを母と慕おうとするひな鳥の必死の想いや、種族の違いなどまったく関係なく、ひな鳥を全身全霊で愛するリスの想いが、涙を誘います。また、血縁でなくとも、深い愛情を注いで育てていく中に親子の情が芽生えていく様子を読みながら、大切な相手との関係性を育むには、理屈や条件のない愛が欠かせぬことを教えられます。

しかし、現実には、「自分の子供だから」「自分の友人だから」「自分の……」と、自分と密接な関係にある人なのか、どんなことをしてもらった人なのか、また、どんなことをしてくれる相手なのかと、いろんな条件をつくって愛情をかける相手を選別してしまう自分がいます。きっとそうしないと、自分の生活や自分の大事なものが守れなくなることを、わたしたちは経験的に知っているからなのでしょう。

一方で、本当に困っている誰かを目にしたときに、助けたい、助かってほしいと強く願う気持ちも嘘ではないと思います。その瞬間だけは、わたしたちも他者に無条件の愛情を注ぐことができているのかもしれません。

そんな無条件の愛、お慈悲を、わけへだてなく絶えずそそいでくださる方のことを私たちは「ほとけ」とお呼びいたします。腹立ちも欲望も、ほしいままに暮らすわたしたちとは、似ても似つかぬほどに清らかで尊い存在でありながら、愚かしい過ちを犯す者までも、まるでわが子のように胸に抱きとめようとしてくださるのです。そして、リスが愛するひな鳥を探したように、昼夜の区別もなく御目をみめぐらし、わたしたちに慈愛のまなざしと救いの光をそそいでくださるのです。

家族や友人がそばにいても、孤独を深めることがあります。不安を一人で抱え込んでいる自分のことを、何も問わずにただ受け入れてくれる存在がそばにいてくれたなら、どれほど安心なことでしょう。幼子が母の声に安堵して、母を呼び求めるように、愛おしく自分を想ってくださる方の声に素直に応えることができたなら……。

『よぶこどり』を読みながら、得難いものだからこそ、求めてやまぬのが無条件の愛であり、それは触れるだけでもあたたかい気持ちにさせてもらえるものであることを教えてもらったように思います。そして、凡夫であるわたしたちも、「ほとけ」を拝む日々のうちに、そのお慈悲の心をわずかでもいただき、周りに向けられるようになれたら、きっと幸せな気持ちにさせていただけるのでしょう。

(2020年6月22日 吉水岳彦 / 東京・光照院)