浄土宗新聞

浄土宗のお坊さんと見る一作:2『女の子の食卓』

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全3回にわたって、広く親しまれている漫画やアニメの中から、浄土宗僧侶がオススメの一作を仏教や浄土宗の視点から紹介します。(隔週更新)


『女の子の食卓』
著者:志村志保子  出版社:集英社
出版年月:2005年10月(単行本全8巻) ISBN:978-4-08-856648-1
作品紹介ページ:http://cookie.shueisha.co.jp/story/23.html

嬉しい時も、悲しい時も、それでも食卓につき、生きてゆく

「食べ物」をテーマに女の子の感情や思い出を結び紡いで、人生の一幕を鮮やかに描き出したショートストーリー集。人は嬉しい時も、悲しい時も、怒っている時も、辛い時も、それでもお腹はすき、食卓につき、ご飯を食べて生きてゆくのだ。普段は特別に意識することもなく口にしている食べ物の「甘い」「苦い」「すっぱい」「熱い」「冷たい」といった味覚は、実は私たちの記憶に深く刷り込まれており、その細やかな感情の発露が密度深く打ちすえられる作品群である。その中の一つ「えっちゃんのママのバジリコ・スパ」を紹介しよう。
主人公は高校を退学したばかりの女子高生。学校にも家庭にも居場所がなく、やさぐれて公園のベンチに座っていたときに偶然、中学校の同級生のママと再会する。「いい子」だった中学時代はよくご飯をご馳走になっていたが、今はすっかり出で立ちも変貌して同級生とも没交渉。そんな主人公の姿からママは目をそらすことなく、静かに「久しぶりにうちにご飯を食べにいらっしゃい」と声をかける。昔から自然志向だったママは、自ら育てたハーブを肉料理やソースに入れて、いつも必ず「セージの学名には救うという意味があるの」などと解説する生真面目な性格。中学生の当時はそれを聞き流していた主人公。今回もとびっきり美味しいバジリコ・スパゲッティがふるまわれ、そっとひと言が添えられる。
「バジルには〝再生〟って意味があるのよ。まだ終わってなんかいないのよ」
主人公はその後、家出もせず、大学にも行き、普通の会社員になった。不満はない。そして大人になってから、バジルには「再生」という意味がなかったことを知る。同級生のママのでたらめだったのだ。それが「むしろ嬉しかった」。
時がたち、同じ公園のベンチで、今度はママが座っているところに主人公が出くわす。ファミレスで近況を報告し合うと、現在ママは離婚して一人暮らし、同級生ともしばらく会っていないことが告げられる。「いい妻でも、母でもなかったみたい」とつぶやく寂しそうなママに、主人公は「バジリコ・スパを食べましょう」と提案する。それは世界でただ二人だけが知る「やさしい嘘」なのだった。
わずか16頁の作画で首尾よくテーマを収束させて合釈する力量にうならされ、つい仏教説話として読み解きたくなるような抜群の物語力もそなえている。ママの言葉に重心を置けば「嘘も方便」に通ずるような訓示であり、主人公の立場なら一方的に与えられたと思っていた「恩」が思わぬ形で環流して互いが報われてゆく因縁譚だろうか。ほかのエピソードも一切皆苦(ライ麦100%のライ麦パン)や利他行(妹の極上のスクランブルエッグ)、慈悲(ポケットの中のミントガム)などの仏教用語を思い起こさずにはいられない。ぜひご一読をお勧めしたい。


評者紹介:工藤 量導(くどう りょうどう)
1980年生まれ。大正大学大学院博士後期課程終了(博士・仏教学)。専門は中国隋唐代の浄土教思想。著書に『迦才『浄土論』と中国浄土教―凡夫化土往生説の思想形成―』(法藏館、2013年)がある。現在、浄土宗総合研究所研究員、浄土宗教学院主事、大正大学非常勤講師、淑徳大学兼任講師、浄土宗本覚寺(青森県今別町)副住職。