心ゆくまで味わう 法然さまの『選択集』 第44回
浄土宗で〝第一の聖典〟と位置づけられる書物『選択本願念仏集』(『選択集』)を大正大学教授・林田康順先生が解説。
第8章 念仏の行者必ず三心を具足すべきの文⑤
異なった理解の人々への対応―四重の破人①―
引文
(※善導大師『観無量寿経疏』引用の続き)
〈質問する〉凡夫は智慧が浅く、さまざまな煩悩がもたらす障りは実に奥深い。もし私たちと異なった解釈をする者や別の行を修める者が、多くの経典やその注釈書(論疏)を手に携え近づいてきて、これみよがしにそれを示し、私たちの受けとめ方を妨害したり、非難を加え、「煩悩多きすべての凡夫は、これまで犯してきた罪の障りが重いので、念仏をとなえるだけで極楽浄土への往生を遂げられるはずがない」と、声高に言い募っている場に出くわしたとする。
その場合、どのようにしてそうした非難を打ち破り、念仏往生の信心を確立し、揺らぐことなくただひたすら信仰を前に進めて、ひるんだり後戻りしたりする心を起こさないようにすればよいだろうか。
〈答える〉もし人が経典や論疏を証拠として、「凡夫は念仏をとなえるだけで浄土往生を遂げられるはずがない」などと言い張っているならば、それに対して念仏行者は、ただちに次のように答えなさい。
「あなたが、経典や論疏をお持ちになり、その内容を証拠として、『凡夫は念仏をとなえるだけで浄土往生を遂げられるはずがない』とまくしたてたとしても、私自身の念仏信仰において、あなたの批判を受け入れることは決してない。それは次のような理由による。
まず私はあなたが提示したさまざまな経典や論疏の内容を信じないわけではなく、ことごとくすべての聖典を仰ぎ敬って信じている。しかし、釈尊がそれらの経典をお説きになった時は、それぞれ説かれた場所や時代、相手が違い、もたらされる利益も異なっている。あなたたちが証拠とした経典をお説きになった時代は、私たちが大切にしている『観無量寿経』や『阿弥陀経』などを説かれた時代とは異なっているのである。
そもそも仏による教えの示され方は、受け取る相手に応じたものであり、教えを説かれた時や状況に応じてさまざまに変わるのである。すなわち、あなたが手にしている経典は共通して、人もしくは天人、もしくは菩薩がさとりを開くために体得すべき教えや、修めるべき行について説かれたものである。
しかし、釈尊は『観無量寿経』において、静めた心で阿弥陀仏や極楽浄土を観想する行(定善)や散り乱れる心のままでも修められる浄土往生の行(散善)をお説きになり、そのうえで、ただ絶望の淵にあって教えを受けている韋提希夫人、あるいは釈尊の入滅後、時代が下るにつれて次第に増進する5種の濁り(五濁)が蔓延する悪い世界に生まれ、5種の苦しみ(五苦)などに苛まれ続けるすべての凡夫のために、経典の内容を証拠として『念仏をとなえるだけで極楽浄土への往生を遂げられる』と示されたのである。
こうした由縁に基づき、私は今、心をひとつにして『観無量寿経』において説かれた釈尊の教えをより所として、揺らぐことなく念仏を奉じて相続しているのである。たとえあなたたちが、幾億人と数え切れない程に集まって、『凡夫は念仏をとなえるだけで浄土往生を遂げられるはずがない』とまくしたてたとしても、それはかえって私自身の念仏往生の信心を増進し、確固たるものにするばかりである」と。
(※『観無量寿経疏』の引用続く)
【林田先生の解説】
今回も、引き続き善導大師の『観無量寿経疏』に説かれる深心(深く信じる心)の解釈が続きます。
前回は、当時中国で広まっていた念仏別時意説への反論として、まださとりを開いていない菩薩の説くことに不用意に従うべきではないことが重ねて指摘されました。この説は、お念仏による浄土往生は、現在の命が終わった後、次の生ではなく、何度も生まれ変わり死に変わりを繰り返した遠い将来(別時)にかなえられるというもので、菩薩と称された無著・世親の著書に基づいた考えです。それに対して善導大師は、お念仏の教えは仏が説かれた完全円満な教えであり、〝菩薩〟が説く不完全な教え(念仏別時意説)によって信仰が退かないよう、お念仏の教えを深く信じることを訴えられました。
続いて善導大師は、お念仏の教えを非難し、信仰を後戻りさせようと言い寄ってくる4種の人(四重の破人)について問答の形式で例示します。
今号はその中、お念仏の教えとは異なった解釈を施す人や別の行を修める人が現れて多くの経典やその注釈書(論疏)を提示し、お念仏の教えを非難してきた場合の対応が説かれます。
まず大師は、提示された経典や論疏を含め、すべての聖典を尊んでいることを伝えるよう示されます。なぜなら仏教徒は、仏・法(仏の教え)・僧(教えに従い生活する集団)の〈三宝〉を篤く敬わねばならないからです。
その上で、多くの経典は、説かれた時代や相手、目的がそれぞれ異なっていると述べられます。つまり釈尊がお念仏を非難する人たちの手にする聖典を説かれた目的は、その聴衆にさとりを開かせることにある一方、『観無量寿経』などの「浄土三部経」を説かれた目的は、絶望の淵にあった韋提希夫人や、釈尊入滅後のすべての凡夫に阿弥陀仏の極楽浄土への往生を目指させることにあり、両者の目的は根本から異なるのだと説かれたのです。
韋提希夫人は、古代インド・マガダ国の頻婆娑羅王の妃で、王と共に釈尊に深く帰依していました。『観無量寿経』で夫人は、息子・阿闍世王子に幽閉された王にひそかに食べ物や飲み物を運んだことで、自らも幽閉されるという悲劇の主人公として描かれます(王舎城の悲劇)。その絶望の淵にあって夫人は、釈尊から極楽浄土へ往生する道を示され、究極の救いを得ます。
釈尊入滅後、時代が下るなか、時代が乱れる、思想が乱れる、煩悩が盛んになる、人々の資質が低下する、その寿命が短くなる、といった5種の濁り〈五濁〉がはびこり、その中で、生まれる苦しみ・老いる苦しみ・病にかかる苦しみ・死ぬ苦しみ・愛するものと離れる苦しみの〈五苦〉を始めとする、多くの苦しみに苛まれ続けている凡夫こそ、仏教が廃れた時代である末法に生き、自身の力でさとりへの道を歩むことができない私たち自身に他なりません。
釈尊は、大いなる慈悲の心によって、韋提希夫人だけでなく、今ここに生きる私たち一人ひとりに向けて、究極の救いであるお念仏の教えを説き遺してくださっているのです。
そして、この事実を正しく受けとめられれば、お念仏の教えに対する一方的な非難は、かえってその信仰を確固たるものにすることになる、そのように善導大師は主張されたのです。

- 林田 康順(はやしだ こうじゅん)
- 大正大学仏教学部教授
- 慶岸寺(神奈川県)住職
- 法然浄土教、浄土宗学が専門。『浄土宗の常識』(共著、朱鷺書房)、『法然と極楽浄土』(青春新書)ほか、著書・論文など多数。